神奈川県立音楽堂を見る

神奈川県音楽堂
神奈川県音楽堂 設計:前川国男 1954(昭和29)年

JR桜木町駅から徒歩10分ほど、紅葉坂を登りきるあたりにゆったりと横たわっていた。

ガラスとコンクリートによる低層部、穴あきブロックによる庇の手摺。少し傾斜した軽やかな高層部。

戦後9年目にして出来た、当時のままの姿が清々しい。

1951年 坂倉準三:鎌倉神奈川県近代美術館

1952年 丹下健三:広島平和記念資料館

1953年 大江宏:法政大学大学院

 そして、

1954年 前川国男:神奈川県立音楽堂

 となる。

いずれも、戦後日本を代表する建築家たちが、戦争の長い空白の後、初めて本格的な建築を設計し、実現したのが、この時代だったのだ。ともに彼らの代表作であるとともに、日本の戦後を代表する名建築である。

ちなみに、この建築は5名の建築家による指名コンペを勝ち抜いて前川国男が獲得したもの。参加者は丹下健三、武基雄、坂倉準三、吉原慎一郎。

今のようにミキサー車がコンクリートを運んでくることはなかった。現場で手作業でセメント、砂利、水を混ぜて少しずつコンクリートを造り打っていった。

この時代のコンクリートは現代よりはるかに強く、美しく出来ているという。

衣食住に窮していた時代に、音楽堂は贅沢だった。

右が音楽堂、正面は図書館。

ここが入口という強いサインはない。モダニズム建築の特徴だ。

深い庇の中ほどに黄色い風除室が鮮やかだ。

内側も特別に玄関ホールというほどではない。さりげなくロビーへと導かれれる。

駐車場からロビーまで、真っ平らだ。

ロビーも大きく外の庭に開かれており、極めて明るく開放的だ。

2階へと導く階段も開放的だ。緑につつまれている。こんな環境が維持されているのがすごい。

床の模様を見てください。打ち込んだコンクリートを磨き出す「人造石研ぎだし=テラゾー」という非常に手間のかかる技法で出来ている。できて60年たつのにまったく痛みを感じさせない。

ホールの座席が上がってゆくのにあわせてロビーの天井が高くなっている。

その高い天井に合わせて大きなガラス窓が開いている。

すべてが、ごく自然になるようになって出来ている。

力みのない、豊かな空間こそ、この建築の魅力かもしれない。

音楽堂というと、上流紳士、淑女の集まる気取った空間を想像しがちだが、ここは極めて庶民的。気品があるが、気取ってはいない、市民のための空間になっているといえよう。これこそ、近代建築が目指した模範的な空間といえるかもしれない。

開演を待つ人々の姿も、ちょうど良いスケールである。

天井も特別豪華なものではない。さりげなく、2階座席の勾配に合わせて、ゆるく段になっている。その天井を間接照明が照らしだしている。

天井のペンダント・ライトも創建以来のもの。

天井の高さのため、人が入っても窮屈な感じはない。

床のパターンがなかなかいいですね。

階段を支える柱と階段裏。実に丁寧な作り方をしている。わざわざのぞく人はめったにいないが、こんな所も手を抜いていない。

2階ロビー。駐車場に面した全面ガラス窓になっている。

「木のホール」とうたっている。評判の高いホールだ。

壁面が完全に木でできている。

ここの音は、内外の演奏家から非常に高い評価を得ているという。

前川国男にとって、音楽堂の設計は初めての経験だった。

このため、ロンドンの「ローヤルフェスティバルホール」の設計計画書を取り寄せて徹底的に研究したと言われている。

わざわざ「木」を使ったわけではなく、このときは、「木」以外の選択肢はなかった。それがよかった。

舞台で音合わせの演奏をしているとき、木の壁に身を寄せてみると、本当に壁がヴァイオリンかチェロのように響いているのが体に伝わってくる。ホール全体が楽器のように共鳴しているのだ。

壁の表面が「木」であるだけでなく、その裏の下地も木製であることがよいのではないかと言われている。

模型を見ると全体の構成がよく分かる。

右が音楽堂、左のロの字型が図書館になっている。

 

1992年、このあたり一帯を再開発し、効率の良い施設につくりかえようという計画がもちあがった。建築界の一部にこれを推進する動きもあったが、これに対しまっこうから反対したのが、建築史家の鈴木博之であった。これは、当時の建築界を二分する大きな話題になった。

近代建築は効率の良い新しい建築に建て替えてゆくのが、当然とする、経済原則を掲げる推進派と、建物に込めた市民の記憶こそ建築の価値だとする保存派の主張がまっこうから対立した。

結局、バブル経済の崩壊のため、計画は行きづまり保存の流れとなった。

これが、近代建築の保存の歴史にとって重要な一里塚とされている。

神奈川県立図書館のサインに従って歩いてみる。

ここが中庭になっていて、ロビーの大窓が見える。

図書館へ入るには少し階段を登る。

穴あきブロックが大きな壁面を埋めている。

図書館にも大きな窓が緑に向かって開いており、気持ちのよい空間になっている。

戦後9年目に出来上がった、音楽堂と図書館の複合建築。

まだいたるところ、焼け野原が広がっていた時代にこれだけの文化施設をつくったのは神奈川県知事・内山岩太郎。1947年〜1967年、5期20年知事を勤めた。

鎌倉の近代美術館もこの人の発案と実行力の賜物である。

香川県の金子正則(1950〜1974:6期24年)とともに、戦後の郷土に優れた建築をつくり、貢献した偉大な知事である。

 

内山は外交官としても有名で、日本の国連加盟のために尽力したという。

スペイン語を始め、得意な語学力を生かして、各国と交渉したが、戦争中の残虐行為のため、フィリピンが立ちはだかった。

内山はこのフィリッピンと交渉し、戦中の非礼を詫び、日本軍が破壊したマニラの大聖堂を復旧したいと提案し、同意を得た。

ところが、帰国してみると、日本ではどうしても協力が得られない。しかたなく、神奈川県が独力で建設に必要なセメントをかき集め、毎年送り続けたという。

戦後の日本を支えたこういう人を忘れてはならない。

 

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コメント: 1
  • #1

    ちばまさひ (火曜日, 15 11月 2022 15:32)

    写真が良く、コメントも解り易くて暖かい。聞きながら一緒に観て回っている様でした。有難うございました。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。