雨の桂離宮を歩く

桂離宮
桂離宮

長年の宿願、桂離宮へとやってきた。

阪急京都線、桂駅を降りると、駅前に案内標識があった。桂離宮まで徒歩1.2km。

途中の案内板は悲しいほどひどいものだった。これが、世界の桂離宮への案内板ですか?

桂川の対岸から見た離宮の全景。花見の季節を避け、まだ肌寒い3月にやって来たので、離宮の森は冬枯れの木々の梢が目についた。桂川は思ったより大きな川だった。

桂離宮の全体図だ。まずは、右上の桂垣にそって通用門を目指す。→は拝観のコース。

川に面する外壁は、生きた竹の枝を編んだ「笹垣」となっていた。

きめ細かく編み込んである。笹の生け垣、世界でここだけの垣根。

角までくると、竹の垣根となる。「穂垣」というらしい。

これがまたよくできている。

竹の小枝を丁寧に揃えて編み込んでいる。

さらに近づいて見ると、竹の小枝は節を揃えてあり、さらにその孫枝まで揃えてあるので、複雑な文様が透けて見える。

離宮に入る前に垣根にすでに感銘を受けている。

「表門」の周辺。じつにさりげなく、控えめな佇まいである。

「表門」は普通には使われることはない。貴賓に対しては開くのだろうか。

表門は、よく見るとすべて割竹でできていた。しかも非常に密に打ち込まれていた。この前を通り過ぎて、「通用門」を目指す。

「通用門」参観者の入口である。

ブルーノ・タウトは1933年5月3日、日本につくと、翌5月4日建築家の上野伊三郎によって、桂離宮へ案内される。タウトは一目みるなり、「泣きたくなるほど美しい印象だ」と書き付ける。そして日記のこの日の最後の頁に「今日は恐らく私の一生のうちで最も善美な誕生日であったろう。」と書いている。

タウトはこの日以来、桂離宮を最高の建築と激賞し、日本美の代表として日本と世界に広く知らしめた。

園路へ入る前に、いったん待合室でヴィデオ解説を見たり、説明を受ける。見学は図中の矢印のとおりに歩く。

まずは、通用門から入って舟小屋の脇を通って御幸門をめざす。

いよいよ園路へと入ってゆく。

まずは、土橋を渡って「御幸門(みゆきもん)」へとむかう道。左手にかすかに見えるのが「舟小屋」。

低い垣根で隠してあるが、のぞくと「舟小屋」が見える。昔は池に舟を浮かべて客をもてなしたという。

池に張り出したところにアイストップのように小さな松がある。かつては大きな松の木があったそうだ。「住吉の松」と言われていた。

小道の先端は丸く盛り上げた土の突端になっており、亀の甲とよばれた。先端の小松の先に茅葺き入母屋造の「松琴亭」を望む。

園路の舗装。黒を中心とした小さな石がていねいに埋め込まれている。驚くべき舗装だ。

侵入できない園路。池に向かってまっすぐに伸びている。自然を生かした庭園の中にこんな真直ぐな園路というのも不思議だ。

御幸門へ着いたら、ちょっと門内へ入って、すぐにもどり、外腰掛けをめざす。

「御幸門」。智忠親王が後水尾上皇と東福門院の行幸を迎えるためにつくられたと言われている。

「あべまき」というくぬぎのような皮付きの木の柱が使われ、粗い格子の扉となっている。門とは言っても軽い遊びの要素が強いのだろうか。

「御幸門」から「表門」を見る。先ほど通り過ぎた表門を内側から見ている。表門から御幸門へのまっすぐな道は後水尾上皇を迎えるための道、権威を表現するために直線の道がつくられたのか。

御幸門の右手前の足元にある四角い石。上皇の輿を停めるための場所だったらしい。厳しく角ばった切り石である。門の前でなにやら凛とした緊張感をたたえている。

御幸道を振り返る、上皇は御幸門をくぐってこの道を御殿へと向かった。

正面に少し斜めにかかった土橋が見える。土橋は舟が出て行くため、太鼓橋になっている。路面は黒っぽい小石を粘土でかためてある。

途中、蘇鉄山の横、池のほうへ伸びる園路を見る。延段と言われる敷石の道。直線の切石と自然石を組み合わせてまっすぐな道になっている。先端に石灯籠が置かれてアイストップになっている。

「外腰掛」を見学したあと、「松琴亭」を目指す。

これから向かう「松琴亭」の待合、「外腰掛」の前にある蘇鉄の山。桂離宮のなかでかなり異色の風景である。薩摩藩からの贈り物だという。

松琴亭の茶会の客にまず薩摩藩島津家献上の蘇鉄を見せる、薩摩藩といえば、幕府が最も警戒していたはずだから。なにやら幕府との微妙な政治的駆け引きを想像させるではないか。

外腰掛前の延段。厳しい切石の直線と柔らかな自然石を組み合わせた直線。自然と人工の対比。「行の延段」と言われている。習字の「真・行・草」の行だ。

ここは自然石が多い部分。色や形の異なるさまざまな石を組み合わせている。

「外腰掛」。松琴亭のための待合として作られたもの。すべて皮つきの曲がった自然木が使われている。あくまでも遊びの建築ですよ、と語っている。

書院の建築はかなり格調の高い建築であるが、茶室はまったく自由奔放に逸脱している。作者はその対比を楽しんでいるに違いない。

大きな自然石の踏み石が据えられている。

屋根の裏側をそのまま見せている。「化粧屋根裏」という。曲がった梁に曲がった束柱。竹の垂木。直線のなかに曲線を対比している。建築の規範からはずれた自由奔放な遊びの建築だ。

遊び心があふれた細部。

じつに繊細な遊び心。素材の異なる各種の平行線が鬩ぎあっている。建築というより、工芸品のような手業の集積。

砂雪隠の「下地窓」。本来は壁で塗込める竹を編んだ下地を塗り残して窓としている。茶室など数寄屋造りの典型的な手法だ。

砂雪隠の内部。つまりトイレだ。実際にはトイレとして使われることはないという。

石灯籠と手水鉢。四角な石の中に45度に振った四角の浅い穴が穿ってある。二重枡形の手水鉢、極めて幾何学的な造型。

桂離宮の石の造型には幾何学的なものが多い。小堀遠州が関与したと言われる理由の一つではないだろうか。

タウトは桂離宮を作ったのは小堀遠州としているが、いまでは、遠州が直接関わったことはないとされている。

石灯籠と滝口。ここから桂川から池の水を取り入れている。庭園には合計24基の灯籠があるらしい。これは「織部灯籠」キリシタン灯籠ともいわれている。

枝の間に「まんじ亭」が見える。4つの腰掛けが互いに向き合わないように卍型に作られた待合である。ちょっと離れた高台の上にある。

待合からは見えなかった「松琴亭」が、池をはさんで見えてきた。

手前にわずかに反った石橋がかかっている。小さな島の松をはさんで、その左に真直ぐな石橋。反り橋と直線の橋、二つの橋が対照的に見える。

左から「州浜」が伸びてその先端に石灯籠が置かれている。

桂離宮の中でもっとも石を多用した技巧をこらした美しい景観。

この日、雨にたたられてがっかりしたのだが、雨でなければ味わえなかった美しさかもしれない。

池の中に伸びる石と石橋の列。「天の橋立」と言われている。

池のなかに伸びる小石の浜。先端に小さな石灯籠。その向こうに松とそりのある石橋。そして庭園内で最大の茶屋「松琴亭」。

見学者の列の先端が松琴亭についたようだ。

「松琴亭」から、「洲浜」、「天の橋立」、そしてその向こうに書院の建築群がかすかに見えてきた。

書院や茶屋の建築が園内に点在し、池を挟んで、互いに見る、見られる関係を保っている。しかも、その間には、自然石や灯籠が注意深く配置されて近景をつくっている。それこそ桂離宮のもっとも美しい見せ場かもしれない。

「松琴亭」に到着した参観者のグループ。20人ほどが一団となって、宮内庁職員の説明を聞きながら、案内されて歩く。

左手前の石橋は、真直ぐな一本石。戦国を生き延びた武将、加藤左馬助から贈られたと言われている。もっとも厳しい表情をもった石橋だ。

ここから見ると、松琴亭の座敷部分の屋根は茅葺きの入母屋造りで、その右側が吹き放しの深い軒になっていて、4本の柱で支えられているのが分かる。

裏側の茶室部分は何層もの屋根が重なり、かなり複雑な構成になっている。

石橋の向こう側から池の中に三つの飛石が伸びている。茶室へ客を迎えるとき、先端の飛石の上に木の柄杓が置いてあったらしい。川の水で手を洗ってください、という「流れ手水」といわれたものらしい。

松琴亭の深い軒の下。ひょうたん形の欄間と化粧屋根裏。軒桁は皮付きの「あべまき」丸太。垂木は竹。自由に作った遊び心のあふれる建築。農民の素朴な住まいに共感した町人や貴族が、正当な書院建築に飽き足らずに取り入れて行った。茶室はその究極のかたちだろう。

軒桁に使われている「あべまき」という木は、関東では見かけないが、関西には多いらしい。コルクのような分厚い樹皮が特徴だ。

丹下健三は弥生式の繊細な技術と、縄文式のバイタリティのある技術が拮抗するところに桂離宮の美が生まれたと主張した。

松琴亭の八窓の茶室。遠州好みと言われる部分。ここからはよく見えないが多くの窓、曲がった中柱が特徴か。堀口捨己は、これは、茶室が建築的に許される終着点だと語っている。

襖と床の間の壁が青い。珍しい色使いだ。色あせているが、昔は鮮やかな青だったらしい。

この建物は書院のように高床ではなく敷地も低いので、桂川の洪水で床上1.5mも水があがったことがあるという。

こちらの部屋は床の間も襖も青と白の市松張り。加賀奉書紙を藍で染めたという。桂離宮の中でももっとも大胆なデザインである。

こうしたデザインがモダニズムの建築家たちの関心をひきつけたのかもしれない。

桂離宮は八条宮初代智仁(としひと)親王と二代智忠(としただ)親王の2代に渡って造り続けた作品だと言われている。

二代目智忠は加賀藩から奥方を迎え、加賀百万石の財政援助を得て、自在に普請を楽しんだと言われている。加賀奉書紙の青い色は、加賀藩からの支援を示しているともいえる。

部屋の正面にこちらから向こうの島へ向かう橋の痕跡が見てとれる。堀口捨己はここに朱塗りの大橋がかかっていたという。

先ほどの大胆な青と白の市松張りに対する朱塗りの大橋。極めて鮮やかな赤と青の色彩が対比していたことになる。静かで、上品な桂のイメージが激変するのではないだろうか。

ブルーノ・タウトによって広められた桂離宮の「簡素な美」というイメージに対して、真っ向から挑戦した堀口捨己の一撃だ。

石でできた長炉と呼ばれているもの。部屋を暖めるためのものだったらしい。

松琴亭の「土庇(どびさし)」の下。土塗の竃(かまど)。三角の棚。低い袖垣などからなる吹き放しのオープンな席である。

技をこらした庭を存分に鑑賞するための、半戸外の茶席という位置づけだろう。ここも遊び心あふれる松琴亭の特徴のある見せ場である。

深い軒の下にはこんな場所になっていたのだ。

土塗の竃(かまど)。造形的な作品としても美しく存在感がある。

どんな目的で使われたかわからない、というが、堀口捨己は、このころ明(みん)から入ってきた煎茶の仕方に茶店、酒店、飯店という組み合わせがあり、そんな影響があるかもしれないと記している。

たしかに、ここは抹茶ではなく、おでんを暖めて、燗酒でもてなしてくれるとうれしいなあ。

園路から、木の間がくれに、池を隔てて御殿群が見える。

「賞花亭」は、池を掘ったときにでた土を盛り上げた山の上に建っている。昔の写真には、軒先に龍田屋と染め抜いたのれんがひらめいているが、最近は、見学に不便ということで外しているらしい。

ここは峠の茶屋なので、のれんの下がった雰囲気が似合う。

「賞花亭」の化粧屋根裏。簡単な寄棟造りなので、屋根裏の形もシンプルだ。

屋根裏を見せて農家のような野趣を楽しんでいる。

しかし、これは、簡単なつくりではない。美しく見せるために実は最高の材料を吟味し、最高の職人が技を凝らしているのである。普通は裏側は簡単につくって、天井で隠してしまうのが日本建築の常道。

桂離宮は「簡素」な建築ではない、「簡素」に見える表現のために何倍もの手数をかけている、極めて贅沢な建築なのである。

なんとも透明感のある連子格子の窓と、目一杯大きな下地窓。夏なら涼しい風が通り抜けてゆく快適な場所だろう。

「賞花亭」をすぎて「園林堂(おんりんどう)」へ向かう途中に御殿群に向かう土橋がかかっている。

新御殿が正面に見える。この木はちょっと大きく育ちすぎてバランスを欠いていると思うが・・・。

「園林堂」の敷石とつくばい。幾何学的な造型の遊び。近代的な造型センスが光る場所だ。

土橋。細部までじつに丁寧な作り方。この下を舟が通り抜けたのか。

「笑意軒」から見た土橋と「園林堂」。桂離宮のなかで唯一の仏教的な要素だ。桂離宮に日本美だけを見たい人にとっては、目障りかもしれない。しかし、現実の桂離宮はいろいろな要素を包み込み、その対比を楽しんでいる。

「園林堂」の石灯籠のむこうに「笑意軒」を望む。この石灯籠も仏寺に相応しいデザインかもしれない。

「笑意軒」。寄棟の田舎屋という位置づけ。茅葺きの屋根が柔らかなふくらみを見せている。

桂離宮にはたくさんの石灯籠があるが、どれも一見単純に見えるが実はなかなか技をこらしたもの。これは笠も灯袋も台も六角形。

「笑意軒」の欄間。丸い下地窓が6個並んでいる。意表をつくデザインだ。

「笑意軒」の軒裏。軒桁には皮のない丸太、杮葺きの屋根下地が見えている。茶屋のつくりは一見似ているが、それぞれ材料が異なる。

「笑意軒」の座敷。窓の向こうに畑の風景が広がっている。畑の中の農家という、この風景を維持するために宮内庁が隣地の畑を買い取り、3軒の農家に貸して耕作を頼んでいるという。

この畑、もともとは桂離宮のものであったが、戦後の農地解放で人手にわたり、改めて買い戻したのだという。進駐軍による農地解放は宮内庁からも容赦なく土地を取り上げたのだろうか。

窓の下の小壁には金とえんじ色の布が斜めに切り分けて張られている。ちょっと遠くてよくわからないが、大胆な遊び心が見える所だ。

笑意軒の縁側。杉板の木目が鮮やかに浮き上がっている。

板戸の把手。遊び心があふれている。

手水鉢、延段、そして池にかかる土橋。

篠竹の目の粗い格子。町家の格子とまったく異なる田舎家の風情を表現しているのだろうか。

園路の脇にさりげなく置かれた三角形の石灯籠。笠から足まですべて三角。

「草の延段」自然石だけでできている。

御殿へ向かう延段。色とりどりの自然石が集められている。

「蹴鞠の場」から「新御殿」を見る。

左が「新御殿」、「楽器の間」を挟んで、右が「中書院」。いずれも高床の上に立っている。白い障子が縁側の外に巡らされている。床下にも白い壁が塗られ、白い面と黒い縦線の対比が美しい。

中央の楽器の間だけが障子がなく縁側が黒く見えている。

新御殿と中書院はよく似ているが、新御殿の障子の上の横線、縦線の強弱など、微妙な変化が快適なリズムを伝えてくれる。

丹下健三は1960年に写真集『桂』を日米同時に発行したが、その中の写真は非常に奇妙なものであった。例えば、このアングル。丹下はすべて屋根を切り捨ててしまったのである。つまり丹下は桂離宮を近代建築として見ようとしたのである。

こんな写真集で桂離宮は世界に発信されたのだった。

古書院。屋根が池に向かっている。桂離宮でもっとも早くできた部分。この部分は縁の下が透けていない。

古書院に向かう荒々しい踏石の群れ。そして「月見台」。

「月見台」。外から見てもしょうがない。昔は室内を見学できたが、残念ながら、いまは、室内を見せてくれない。ここから、池ごしに月をながめるのが、そもそも桂離宮の造営の目的だ。

この月見台、表面は竹の簀の子だ。桂離宮は塀から始まって、表門、屋根裏、格子など、実に竹がよく使われている。昔の日常生活で、竹は非常に身近な材料だったことを示している。

この障子、室内からの写真はあまりにも有名だが。

例えば、堀口捨己の『桂離宮』に掲載された佐藤辰三による写真はこうだ。

開け放された障子の間から月見台とその向こうに池、石灯籠、そして深い森が見えている。

昔の人は、ここから森の上に月が出るのを楽しんだのであろう。

ブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい」と日記に書いたのは、初めて桂離宮を訪れてここに立った瞬間の印象だった

「月波楼」の外観。なかなか見にくい位置にある。

「月波楼」のぬれ縁。

「月波楼」は池に向かって大きく開放されており、月を鑑賞するための座敷だったのであろう。

池をへだてて、「松琴亭」が見える。なんとも素晴らしい眺めではないか。

座敷から茶屋の見える景色。桂離宮のもっとも特徴ある見所だろう。

襖の紙は紅葉の文様。

「月波楼」の床の間と付書院。

寄棟造りの勾配の大きな屋根裏をそのまま見せている。棟木を支える束柱にはわざわざ曲がった自然木を使っている。沢山の直線のなかの曲線。

「数寄屋」とは「好き屋」であり、建築の規範を外れた自由な遊びの建築を意味している。

板の間のすみに切られた土の炉と小さな棚。そして細長い下地窓。

『芸術新潮』に型破りの日本美術論を書き続けた橋本治によると、「月波楼」は町中の茶屋なのだそうだ。「松琴亭」はいちばん格の高い茶室、「賞花亭」は峠の茶屋、「笑意軒」は田舎家。こうして4つの茶屋はそれぞれ特色をもったつくりになっているという。分かりやすい説明だ。

この周りには梅の木が多かったので、梅見の客に暖を提供したものだろう。この大きな炉の中には灰が詰まって、炭火が真っ赤に燃えて客をもてなした。いったい、ここでは、客になにをふるまったのだろうか。

最後になってしまったが、本来ここが書院への玄関口。「御輿寄(おこしよせ)」と言われる部分。手前からまっすぐに伸びているのが「真の飛石」と名付けられた延段である。切石だけでできている。園路の中の「行の延段」「草の延段」に対し切石だけでできた「真の延段」は厳しい表情をもっている。

やはりここが正規の玄関口であることを示しているのだろう。それにしては、さりげない玄関だ。権威や権力を誇示する造型物が一切ない。

延段が斜めに入っているところに注目したい。4段の石段を登って、大きな御影石の「六つの沓脱」という切石にたどり着く。


正規の玄関ではない、裏口から入ってゆくといった風情ながら、手をつくしている、桂離宮の性格がよく出ていると思う。

「中門」。御幸道から書院へと入ってゆく門である。

「御幸道」から「中門」へゆく道。

最後に御幸道の土塀。職人の技を駆使した土塀の屋根が年月を経て自然に帰ってゆく。

桂離宮は実に見せ場が多い。座敷に上がれなかったのは残念だが、それでも十分楽しめた。多くの人がいろんな見方を教えてくれるのも面白い。

この素晴らしい庭と建築の魅力を多くの人に教えてくれたのは、なんといってもドイツ人の建築家ブルーノ・タウトだ。かれは、パルテノン神殿に匹敵する人類の宝物だとまで賞賛し、日本美の最高のものとしたが、その観点は「簡素で機能的」というモダニズムの視点であった。また桂離宮と対比して日光東照宮を「いかもの」と貶めたため、そんな見方が日本人の常識となってしまった。

こんな平板な見方に反論したのが堀口捨己だったが、さらに激しく噛み付いたのが大江宏、時代によって多様な価値観で評価されてきたことを語ったのは磯崎新、さらにフィリップ・ジョンソンは日光こそ見るべきと語った。

桂離宮をめぐる論戦はつきることがない。それについては改めてふれる機会があるかもしれない。

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コメント: 1
  • #1

    Emi (月曜日, 19 10月 2015 08:43)

    今、建築専門学校に通学している学生です。といっても”花の人生リベンジ組”です(シニア)。卒業制作のテーマで日本の歴史を取り上げ、日本建築を設計したいと考えています。この年になるまで、桂離宮を訪れたことがありませんでしたが、10月中旬その機会あり、行ってまいりました。行程は桂離宮→金閣寺→堂本印象派美術館→龍安寺です。公共の交通機関を利用しての旅は、シニアには過酷なものでしたが、大満足な1日でした。卒制の論文のために桂川と桂離宮の関係について検索していたところ、このHPを見ることができました。また改めて、桂離宮を見ることができました。ありがとうございました。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

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