日本26聖人殉教記念施設を見に行く

日本26聖人殉教記念碑:船越保武、聖フィリッポ西坂聖堂:今井兼次 1962年
日本26聖人殉教記念碑:船越保武、聖フィリッポ西坂聖堂:今井兼次 1962年

JR長崎駅を降りて徒歩5分ほど、ほんとに駅からすぐ近くの急坂の上にあった。

秀吉の命によって京都で捕らえられ、ここ長崎の小高い丘のうえで磔(はりつけ)にされ殉教した26人のキリシタンがローマ法王から聖人として認められて100年目にあたる1962年にブロンズ製の群像と記念館、聖堂が完成した。

ブロンズの群像は彫刻家:船越保武、記念館・聖堂は建築家:今井兼次の設計。

左の階段の上が殉教の地、西坂の丘、殉教記念碑、右へ進むと聖堂へ出る。

聖堂を挟むように立つ二本の塔。

左の塔は聖母マリアに、右の塔は聖霊に奉献された。

世界中に二つとない独創的な教会のデザインだ。

急な坂の上に建っているので、下の司教館の上に聖堂が乗って空高く聳えているような形になっている。

手で捏ねたような自由な形の塔と違って、聖堂と司教館は幾何学的な近代建築になっている。不規則な窓は聖堂のステンドグラスの窓。

船のような聖堂の屋根は幾何学的で、シンメトリーだが、ステンドグラスの窓は非対称になっている。

1962年に建築雑誌に発表されたときには、この外壁はあらあらしい打ち放しコンクリートであった。この端正な表情はずいぶん当初の印象と異なって優しく、美しい。

船のような屋根の庇、突き出した四角い鐘の枠、司教館の縦格子、バランスが実に美しい。

四角な枠に納まった鐘。こんな鐘楼は世界に例がない。きわめて独創的な鐘の納まりである。手前のクローバーの形は樋の水受け。これもなかなか効果的だ。

司教館の上に聖堂が乗っているため、聖堂へ行くには坂道をさらに登る。

坂の途中の狭い敷地に建っていることがわかる。

聖堂を挟む二本の塔。これこそこの建築の独創的なデザインである。

藤森照信氏はこれをル・コルビュジエの上にガウディを乗せたものだと表現した。こう言ってしまえば何やら分かったような気になってしまうが、実は、全く違う。

今井兼次は早稲田大学を卒業するとともに1919年大学の助手、翌年助教授になっているが、1926(昭和元)年、32歳のときに東京の地下鉄駅のデザインを頼まれ、その調査のためにヨーロッパをまわる。このとき、パリでコルビュジエに会い、バルセロナにサグラダ・ファミリアを訪ねている。この時はちょうどガウディが市電に轢かれて亡くなって間もないときで、サグラダ・ファミリアは誕生の門の塔がまだ上まであがっていなかった。

今井はガウディには会うことができなかったが、そのデザインには大きな衝撃を受け、帰国後 建築雑誌等に繰り返し報告したが、モダニズムに夢中になっていた日本の建築界ではまったく相手にされなかった。

この聖堂の設計を依頼されたとき、今井はガウディを初めて見てから30年たっていた。ついにその時がきた。63歳になっていた今井はそう思ったにちがいない。

陶片モザイクによって作ってみたい。長年、胸の内にたぎっていた想念がついに実現する日が来た。

敬虔なクリスチャンだった妻を亡くして、自らも洗礼を受けクリスチャンとなっていた今井は、殉教した26聖人に思いを寄せて、この作品のために全身全霊を打ち込んで取り組んだ。

この作品をガウディの模倣だという人がいる。しかし、それはまったく間違っている。今井はガウディをコピーした訳ではない。ガウディから得たインスピレーションを心の中で醗酵させ、自らの思いを絞り出すように造型したのである。その形、デザインは完全に今井の胸の内から吹き出した独創的なものである。

それが見るものの心を打つのである。

世界に二つとない端正な美しい建築である。

1962年。東京オリンピックを目前にして日本の建築界は空前の盛り上がりを見せ、合理主義全盛のモダニズムは最高潮に達していたから、この建築は当時の建築界からは異端視され、理解されることはなかった。

今井は早稲田大学の教授であったが、これだけの建築を設計するにさいして、自分で設計事務所を構えようとはしなかった。

設計はあくまで、個人で行い、助手の池原義郎と学生を使って進めていた。教え子の中では、池原はずば抜けて優れた才能をもっていたので、いったん山下設計に送り込み、5年後に教室に呼びもどし、今井の跡継ぎとした。

この聖堂も池原のサポートなくしては実現しなかったと言っていい。

今井が作った粘土の模型を拡大し、数百個の型枠を起こし、コンクリートを流し込み、そこに陶片を貼付けてゆく。

今井は学生らとともに、京都から長崎まで、26人の殉教者たちの足跡をたどりながら、その地の窯元を訪ね、陶片を拾い集めた。

今井はこの陶片モザイクを「フェニックス・モザイク」と名付けて、長崎に先駆けていくつかの作品を残している。東京では後楽園の横にある「東洋学園大学」の壁画「岩間がくれの菫(すみれ)花」だ。いわばこの聖堂のための試行作品といっても良いものである。

長崎では、このモザイクに今井は命がけで臨んだ。

真夏の炎暑のなか、拾い集めた陶片を並べ、メガホンで声をからして塔上の職人に指示を続けた。

最後には、竣工直前、足場の解体が始まり、解体した丸太が次々に落とされていた。だが、どうしても納得できない場所があった。今井は、ついに塔の下に走り込み「落とせるものなら落としてみろ」と叫んで塔の上の職人を睨みつけた。

しばらく睨み合いが続いたが、ついに、諦めた職人が降りてきた。

今井はタイル職人に「そら今だ」と足場に登らせて思い通りのやり直しをやり遂げてしまった。

「現場こそ建築家の戦場」これは今井の口癖である。

今井にとってはまさに命がけの作品だったのである。

ガウディはモザイクのために焼き物を焼かせたが、今井の場合はすべて不用になった陶器の破片をもらい、あるいは拾い集めたものである。

近所の老人が火鉢を抱えてきたり、料亭の女将が不用になった大量の高級磁器をくれたり、陶片の一つ一つに物語がこもっている。

不用になった小さな陶片に命を吹き込む。

それこそ、今井の気持ちのこもったところなのである。

近代建築が、工業製品、合理主義、幾何学を追求してきたのと、まさに正反対の建築なのである。

無用の陶片が集まって大きな価値を生む。決してガウディのコピーではなかったのである。

どんな批判にも今井の信念は動じることがなかった。

この強い信念はどこからきたのだろうか。

「信仰」かもしれない。

しかし、宗教とは無関係の建築でも今井のこの姿勢は変わらなかった。

この頃の早稲田大学の建築科は多士済々、建築界を席巻する勢いがあった。

学内では今井兼次、武基雄、吉阪隆正、学外では村野藤吾、佐藤武夫、菊竹清訓とキラ星のようにスターが揃っていた。その一番の兄貴分が今井兼次だった。

その今井がモダニズムに背を向けた異端の建築家だったところが面白い。

日本のモダニズムの真っ最中にこの異端の建築をもったことは、日本の建築界の幸せというほかない。素晴らしいことである。

今井の1年先輩に村野藤吾がいる。村野は広島をはじめとして数々の教会建築の名作を残している。その村野と今井は生涯の盟友であった。2人ともモダニズムを知りながら、少し距離をおいて独自の作品を作り続けた。

村野藤吾と今井兼次、早稲田の建築を代表する巨匠である。

前川、丹下などモダニズムにどっぷり漬かって育った昭和の建築家とは一線を画し、大正時代の豊かな文化の香りを呼吸して育った建築家の生き残りなのである。

村野と今井の共通点はなにか?

それは、手で考える建築家である。

村野は必ず粘土で模型を作り、設計の意図を模型で示した。

今井のこの塔も粘土模型から型枠を起こした。

元の陶磁器の模様が生かされ、実に豊かな表情を見せている。

陶磁器の原型がそのまま埋め込まれている。

器が一つ一つ手に取るように分かる。

十字架や、星の光を読みとることができる。

碗や皿がそのまま埋め込まれ、生々しい表情を見せている。

モルタルの間にモザイクが埋め込まれている。

司教館の外壁の十字架は鋭いスチール製。

十字架の足元の小さな開口部。

塔を見終わったので、聖堂へ向かおう。

三つの小さな明かり取り。

星を型取った玄関ドアの把手。ドアは既製品でも把手は手作り。左右の微妙な違いに気をつけてください。

玄関の内部。ドアの上にはキリストの事績がステンドグラスに描かれている。

IHSはラテン語で「人類の救い主イエル・キリスト」

殉教者の血の滴り落ちる様

いよいよ聖堂への入り口。

聖堂へ登る階段。

コンクリートの十字架。

十字架の中のモザイク。

いよいよ聖堂にたどり着いた。

船底のような木造の天井。祭壇とステンドグラスを中心に左右に折れ曲がりながら展開する壁面。

さして大きくはないが、端正で美しい聖堂だ。

 

竣工時に建築雑誌に掲載された写真をみるると、内部は荒々しい打ち放しコンクリートだった。今の姿とはまったく違うものだ。今井はこんな状態を良しとしたのだろうか。

しかし、雑誌の写真説明をよく見ると「内部未完成」と書いてある。ならば、今の状態が完成型で間違いない。

木製の天井、白い漆喰を塗った壁。美しい教会建築になっている。

当時はまだ打ち放しコンクリートが美しいと考える建築家が多かったので、これが完成した姿だと思っていた人も多かったに違いない。

(左の写真は「新建築」1962年8月号より)

飛び立つ鳩をかたどったという三つのステンドグラス。

正面の祭壇上のステンドグラス。

スッキリした木造の天井。

ステンドグラスは、モンドリアンのような幾何学的な文様である。

夕陽がステンドグラスを彩る。

西坂公園へ登る。

今から500年ほど前、ここに26本の十字架が立てられ、京都から引き連れてきた26人のキリシタンが処刑された。

それは慶長元年(1596)10月のことであった。秀吉の命を受けて石田三成は大阪・京都のキリシタン24名を捕縛した。

スペイン人宣教師5人、ポルトガル人宣教師1人、日本人18人であった。

うち、3人は12歳から14歳の少年であった。

当時、まだ布教はかなり自由だったため、信者は全国で20万人に達していた。

しかし、ポルトガルやスペインが世界で行っていることは、宣教師を派遣して信者を増やしたあと軍隊を送って占領するという乱暴な政策であった。これを聞いた秀吉は布教の禁止へと舵を切ることになったのである。

24名のキリシタンは京都に集められたあと、耳を削ぎ落され、真冬の寒気の中、長崎まで徒歩で連行されたが、途中2人のキリシタンが自ら望んで列に加わり、合計26名となった。

処刑の場所は長崎と決まっていた。そこは最もキリシタンが多く、見せしめのためであった。

西坂の丘が選ばれたのは、キリストが処刑されたゴルゴダの丘にちなんでのことであった。

 

ブロンズ像の作者、彫刻家:船越保武(1912ー2002)は長男の急死をきっかけにしてカソリックの洗礼を受けた。その8年後1958年26聖人の彫像制作の依頼を受け着手。わずかな資料を手がかりに一人一人の特徴をとらえるため数多くのデッサンをかさね、4年半の歳月をかけて完成させた。船越はこの仕事に作家生命をかけて取り組んだ。

 

第5回 高村光太郎賞を受賞。

 

左に1人、右に2人、合計3人の子どもが分かる。

磔(はりつけ)になった殉教者はぼろぼろの見るも無惨な姿であったが、全員正装した気高い姿に作られた。

中央はポルトガルの宣教師ゴンザロ・ガルシアとわかる。

左側、記念碑の裏側は殉教者の京都から長崎までの足取りを表した玉石のモザイク。右側の記念館へ殉教の橋がかかっている。その中央を殉教の柱が支えている。

記念碑の裏側、左端は長崎の殉教の地を表している。

記念館の外観。太い添え柱は処刑に使われた鎗型を表しており、先端から赤い血がしたたっているのが分かる。

記念館の下部はこの地方の伝統的な石垣。その上は処刑場を取り囲んだ竹矢来をかたどっている。

記念館の東・西の壁は全面モザイク壁画となっている。

東の壁は「望徳の壁」。

中央に「キリストの樹」、左に血のリボン。右上から希望の星の光が差している。

西の壁は「信徳の壁」

炎に焼かれる十字架が見える。全ての壁画は今井のデザイン・制作による「フェニックス・モザイク」である。

記念館の入口。

記念館のエントランス・ロビー。宮摺海岸で今井が学生らと採集した白玉石を貼っている。中央にはブロンズの踏み絵の聖母子像が入るはずなのだが…。

記念館の内部。26聖人の殉教関係の資料が展示されている。

資料館の奥の特別展示室

特別展示室の天井

村野藤吾が日比谷に「日生劇場」を完成させたのが1963年、26聖人記念聖堂の1年あと、つまり、ほとんど同時進行していたのである。

日生劇場は今でこそ村野の代表作と高い評価を得ているが、当時は石張りの外観を近代建築にふさわしくないと批難されていたのである。

丹下健三が1964年のオリンピックに向けて、戦後建築の最高傑作と評される代々木の室内競技場や聖マリア大聖堂と取り組んでいたとき、今井兼次や村野藤吾は、モダニズムに背を向けて自らの代表作となるような大作を作っていたのである。

人々はとかく丹下に目を奪われ、村野や今井を見落としがちである。

 

モダニズムが始まったのは1920年とされているが、そうすると今年2020年はモダニズムが始まってちょうど100年目ということになる。

いまモダニズムを振り返ると1960年は大きな節目であった。DOCOMOMOはモダニズムの期間は1920年から1960年としている。

26聖人記念施設の竣工した1962年はモダニズムの大きな曲がり角だったのである。今井の26聖人、村野の日生はモダニズムにとどめを刺す歴史的な建築だったのかもしれない。

 

関連項目

今井兼次の「フェニックス・モザイク」

小さな傑作「碌山館」の魅力

グエル公園は楽しさいっぱい

 

 

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コメント: 1
  • #1

    1951年生まれ (日曜日, 19 4月 2020 23:26)

    日本26聖人殉教記念施設を十年ほど前に見に行きました。大規模事務所より乞われてある寺院の専属の設計事務所作りましたが、145棟位の名義上は設計者になっていますが、マネージメントに追われ、ここまで信仰と造形が一体化出来たことは羨ましいとも思います。当時の事務所の創立者は早稲田出身、系列外の者にもチャンスをくれました。あの篤い語り口が印象的でした。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

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