アテネフランセに改めてビックリ仰天

アテネフランセ
アテネフランセ 設計:吉阪隆正 1962(昭和37)年〜

何度もその前を通りながら、なんとなく正視してこなかった、アテネフランセ。

改めて見直すと、いろんな問題を孕んだ、すごい建築が見えてきた。

超異質な壁面だが、これは、後の増築、とは言っても同じ設計者による対比の美学とでもいうのだろうか。

なんといってもまず驚かされるのは、色だ。この強烈なピンクと紫。

幾何学的で無彩色のモダニズムに慣れ親しんできた、近代建築愛好家にはどうにも受け入れがたい色に違いない。

だが、50数年間、この地に立ち続けて、完全に風景の一部になってしまった。お茶の水からくるマロニエ通りと、お茶の水から水道橋へ線路沿いに走るサイカチ坂が交わる特有の場所を彩って、すでになくてはならない存在となっている。

よく見るとこの玄関の庇もすごいものです。

船のような、ジェット機のような、明らかに近代の造型なのだが、近代建築でこんな造型を採用した建築家はだれもいない。

ピンクの壁面に散りばめられたアルファベットの文字たち。確認してはいないが、たぶんATHENEE FRANCAIS(アテネフランセ)の文字だろう。

コルビュジエが好んで図面に書き込んだステンシル文字に似ている。しかし、なんと過剰な表現だろう。

装飾を削ぎ落して、最小限の表現を目指して来たモダニズムの対極にある、過剰な装飾の氾濫に目がくらみそうだ。

吉坂隆正は早稲田大学の教員でありながら、ル・コルビュジエのアトリエに入門しコルビュジエに学んでいる。

しかし、吉阪が在籍していたころのコルビュジエは、前川や坂倉がいたころの幾何学を追求していたコルビュジエとは一線を画し、豊満な裸婦の絵を描きながら、曲線を多用し、色彩の氾濫するユニテやロンシャンを設計していたのだった。

つまり、吉坂は理知的で革命的なコルビュジエではなく、人間的なというより野性的な生ぐさい人間コルビュジエに惚れ込んで帰ってきたのである。

ル・コルビュジエには日本人の弟子が3人(本当はもっといたが有名なのは3人ということ)いたが、前川国男とも坂倉準三ともちがう吉阪隆正のル・コルビュジエを日本に伝えたのである。

この学校は日本では、フランス語学習の名門中の名門。多くの有名人がここでフランス語を学んだ。コルビュジエに惚れ込んで、ここでフランス語を学んだ建築家も少なくないに違いない。

ラフなコンクリートの壁面に、対照的に鋭利な金属の造型が突き刺さっている。これが、泥遊びのような、崩れそうな造型をキリリと引き締めているのだ。

鋭利とはいっても、そこは吉坂、まろやかな優しさを包みこんでいる。

この壁面の前を通る人に、暖かいメッセージを送り続けているようだ。

いまでは、ほとんどお目にかかることのない、木製の手作りの型枠のあとが、この建物に暖かいふくよかさを与えているような気がする。

コンクリートというものは、作る人によって自在に姿を変える。

「あなた好みの女になりたい」なんて歌謡曲があった。

安藤忠雄の登場以来、コンクリートは平滑でエッジの立った冷たいものというのが常識となっているが、ここへ来ると反対に素朴で柔らかく、暖かみのある素材であることを思い出させてくれる。

コンクリートの冷たさよりも、暖かさを感じさせてくれる。吉阪の体温を感じているのかもしれない。

これがコンクリートだけの何もない大きな壁面だったら、暴力的な圧迫感を漂わせたに違いない。壁に彫りぬかれたアルファベットがどれだけ壁の表情を豊かにしたか、改めて感じさせてくれた。

この建築の過剰な表現について、それは、早稲田大学の体質である、と言っておきたい。彼らはしばしば周囲を辟易させるほどに過剰な表現力を持っている。建築設計にかぎらず、物書きたちもことごとく身につけている体質である。

それは、吉阪の弟子たちがしっかりと受け継ぎ、とくに象設計集団がみごとに開花させた。埼玉県の宮代町笠原小学校などによく表れている。

それにしても、近代建築があれほど忌み嫌っていた装飾をここまで臆面もなく復活させた吉阪の度胸は驚くべきものだ。

このピンク色、吉阪隆正がアルゼンチンに行ってしまって、残されたスタッフが手紙でやりとりして決めたという。なんでも吉坂の指示は「アンデスに沈む夕陽の色」だったという。

じつは、この坂を10メートルほど下がると、サイカチ坂へでる。そこは都内には珍しく大きな空が広がっている。ここから見る夕陽が素晴らしい。この敷地を見た吉阪にはこのサイカチ坂の夕陽の印象があったにちがいない。

階段の塔もなかなか見事な表現力を示している。

四角と三角の窓、とんがった屋根の形。すべてがものを語っている。

1962年。モダニズムが成熟し、終焉を迎えようとしていたころであった。

装飾的な形態がみごとに納まっている。

しかし、これだけ豊かなシンポルに満ちた建築は、近代建築として飛び抜けて異質な存在だ。

避雷針にこれだけとぼけたシンボルを描ける人はほかにいない。

この建築は崖に建っている。裏側にまわって崖の下から見上げると、紫色の壁と大教室の湾曲した屋根が印象的だ。柔らかなシェルの屋根がかかっているわけだ。

最上階の屋根を柔らかな曲線にするだけで、どれだけこの建築の表情が変わったかしれない。これだけでも、吉阪はコルビュジエの「5原則」から逸脱している。

なんでもないことのように見えるが、この一歩が勇気のいることなのだ。

廊下にも光が溢れていた。

廊下に置かれた木製のベンチ。

木製ベンチの脚が気になる。

教室への入口ドアの把手。「引く」と「押す」が形で見事に表現されている。

 

暖かみのある、ユーモアの漂う独創的な形。吉阪隆正以外のだれも決して作ることのできない、傑作である。

階段の壁にもアテナの横顔が刻印されていた。

最上階の教室は、やはり湾曲した天井になっていた。

ここを見ると、屋根はただ膨らんでいるだけでなく、内側にも湾曲した複雑な曲面であることがわかった。

小さな屋上庭園も用意されていた。

階段を降りたところの床に階数表示があった。

モルタルに埋め込まれて数字はやはりコルビュジエの大好きなステンシル文字であった。

階段の手摺は太く、しかし、不思議な断面になっていた。

階によって手摺の断面が全部異なっていた。またその端部の納まりもそれぞれ異なっていた。

吉阪は手摺の形を一つ一つデザインすることを楽しんだに違いない。そしてここに通った生徒たちはその手摺をしっかりと手に記憶したに違いない。使い込まれた手摺の輝きが何よりもそれを証明している。

これは、地下へ行く階段。

2階の床はカーペットになっていたが、ステンシルの表示はあった。

ここが地下階。

地階の一番奥にラウンジがある。地階にも関わらず、崖地のため、窓が開いている。うねる天井がこの部屋が教室と異なる場所であることを告げている。食事をする人、勉強する人、談笑する人、すべてを受け入れる暖かい空間になっている。

窓は下向きに傾斜している。船に乗っているような、不思議な楽しさが漂っている。

階段塔の中には、角度の異なる不思議に交錯した手摺の交響曲が響き渡っていた。

吉阪隆正は登山家としても有名だ。常にエネルギッシュに世界中を飛び回っていた。しかし、63歳という普通の建築家がこれから代表作を残そうというもっとも気力充実したときに亡くなってしまった。

 

吉阪は早稲田大学を卒業し、そのまま助手、助教授、教授と教育者を貫いたことも注目しておきたい。戦後のこの時期、大学に籍を置きながら建築家としても活躍した人は少なくない。丹下健三、清家清、今井兼次、芦原義信、大江宏と戦後の建築史を飾るそうそうたる人々が思い浮かぶ。しかし、吉阪ほど、多くの有能な建築家を育てた人はほかにいないのではないだろうか。つまり、吉阪は非常に有能な教育者でもあった。

 

しかし、それは、熱心に授業を行ったということではない。つねに留学、探検、登山、と大学を留守にすることが多く、学生に接する時間は非常に短かった。しかし、一瞬の出会いが濃密であった、と多くの弟子たちが証言している。

規則にしばられた、今の大学教育とは正反対のものだったようだ。

 

自宅の敷地にプレハブの研究室を建て、学生やスタッフが自由に出入りした。そこでは、実際の建築設計と同時に数多くのコンペに挑戦する道場であった。

そこは、当初は「吉阪研究室」とよばれ、のち「U研究室」と呼ばれた。

多くのスタッフが入門し、出て行った。しかし、初めから終わりまで、動き回る吉阪に代わってここを率いたのは大竹十一という寡黙な男だった。吉阪隆正設計といっても、実際には大竹をはじめとするスタッフの共同作業から生み出されたものであった。

 

また、吉阪は膨大なスケッチを書き、膨大な文章を残した。その思考のスケールは日本を超え、世界を超えていた。

そんな超えた人、吉阪隆正の一端が、この小さな建築からも読み取ることができるような気がする。

つまり、四角四面なモダニズムの規範にしばられることなく、建築はもっと自由にのびのびと作っていいのだ、と語りかけているように見えるではないか。

 

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コメント: 4
  • #1

    ますだゆきこ (木曜日, 13 4月 2017 10:12)

    建物の写真を見ながら、夕暮れの中でこの色合いが合いそうだなぁと思っていたらアルゼンチンの夕陽の話を読んで感動❗️在籍した事があるので嬉しいプチびっくり��

  • #2

    わたなべさちこ (月曜日, 08 10月 2018 11:53)

    わたくし、上京のきっかけがアテネフランセ入学で東横線日吉に独り暮らしでした。毎日、オリベッテのタイプライターで勉強していましたが、自立を急いでアルバイトが忙しくなり自主退学しました。あっもったいないな❗もっと勉強していれば…建築にも興味が…と妄想が!

  • #3

    北村良輔 (月曜日, 16 12月 2019 00:55)

    私の父が担当者として、三重県四日市市に創る、聖公会の教会が入った文化センター「四日市聖アンデレセンター」は吉阪先生にご依頼した設計と聞いていました。外見が青一色の打ちっぱなしコンクリート三階建のビルで、のちにアテネフランセを拝見して、内側の階段の手すりなど、あまりにも似ていて、びっくりしました。
    すでに解体されましたが、一階で喫茶店をやっていた父は、最初、丹下先生の所に頼みに行き、大きなプロジェクトを抱えていた丹下先生が吉阪先生を紹介していただいたと聞いております。

  • #4

    ミナカワヒロシ (木曜日, 03 6月 2021 22:27)

    随所にコルの影響が見られる。玄関の飛行機の翼のような形=ロンシャンの屋根。シェル構造の屋根=モノル住宅。避雷針のフクロウの眼=ロンシャンのガーゴイルの牛の鼻孔。屋根の下の窓桟=ラ・テュレーットの窓割り。地下食堂の白い吹き付け仕上げの梁=ロンシャン。師匠からの引用、いっぱい出てます。心酔するとこうなるという見事な見本。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。