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大倉山記念館

大倉山記念館 設計:長野宇平治 竣工:1932(昭和7)年

神奈川県横浜市港北区大倉山2-10-1

大倉山駅は東急東横線、渋谷から14駅、横浜から6駅目。

交通の便も良く、住みやすい住宅地だ。その駅からすぐ急な坂を登ると大倉山という小高い丘の上に出る。その一番高い高い所に聳えているのがこの建築だ。

白亜の殿堂、とひと昔前なら表現されたに違いない。

およそ場違いな不思議な建築が聳えている。

その最高部に乗っているのが、この神殿のような建築。4本並んだ円柱が上ほど太くなる見慣れない風景だ。

ギリシャ神殿を模した西洋古典主義建築の柱は、必ず上に行くほど細くなる。

ここでは、反対に上ほど太い。

おそらく世界中に例を見ない不思議な列柱だ。

 

元々この建築は、理想に燃えた1個人が私費を投じて作った建築だった。

その人、大倉邦彦(1882〜1972)は佐賀県に生まれ、上海の東亜同文館を卒業、大倉洋紙店に就職、働きぶりを見込まれて、二代目社長大倉文二の婿養子となり、大正9年に三代目社長となった。

 

二つの軒の間に小さな神殿のファサードが付け加えられている。

 

大倉の社業は発展したが、社員の教育に熱心に取り組む一方、世の混乱を憂え、教育こそ改革が必要と痛感し、目黒に富士見幼稚園、佐賀には農村工芸学院を開設した。

さらに、その経営手腕を買われて、当時経営が傾いていた東洋大学から呼ばれて、昭和12年に東洋大学学長に就任し、2期6年間務めて、大学の復興に寄与した。

昭和7年に設立したのが大倉精神文化研究所。大倉の目指したのは、東西の文化の融合であり、その発信基地を作ることであった。

 

 

1階の佇まいはまさしくギリシャ神殿。だが、ちょっとただならぬ不思議な雰囲気が漂っている。

まず、軒下の浮き彫りがいかにも日本的だし、水平に伸びる帯が出所不明の文様で埋め尽くされている。

そして極め付けが上ほど太くなる4本の円柱だ。

 

精神文化研究所には、東西の精神文化に関する図書を集めた図書館を作り、有識者に呼びかけて本の出版も行うことを目指した。

ペディメントには浮き彫りがある。正倉院御物(ぎょぶつ)の八稜鏡(はちりょうきょう)を模した鏡があり、その両側には2羽の鳳凰が綬(じゅ)と呼ばれるひもを咥えて守護している。

 

大倉は横浜郊外の小さな山を丸ごと敷地として購入、ここを大倉山と名付け、その最高部に精神文化研究所を建設することにした。

水平に伸びる装飾のベルトは、全くのオリジナルのデザインに違いない。

 

その設計者には、当時、古典建築の第一人者と認められていた建築家、長野宇平治(1867〜1937)を指名した。

 

中央のS字形の文様を挟んで、左右対称に花の文様が引き伸ばされている。

 

大倉と長野は東西文明の融合という夢を共有し、議論を交わした。当時、長野はギリシャ建築をお手本にした銀行建築では右に出るものがいない、というほど、西洋古典建築に精通していた。

 

玄関入口を囲んで、さらに、神殿のような装飾。

 

三井銀行神戸支店(大正5年)
三井銀行神戸支店(大正5年)

長野宇平治は慶応3年新潟県高田に生まれ、東京帝国大学を明治26年に卒業、横浜税関や奈良県庁に務めた後、日本銀行に入り、以降、一貫して日銀の建築設計に携わり、同時に並行して全国各地の銀行建築を設計した。その最高傑作が三井銀行神戸支店と言われているが、残念なことに阪神淡路大震災で倒壊してしまった。

 

長野は長い間、銀行建築に携わってきたので、格調高い様式建築の専門家と見られてきた。だが実はそれほど単純ではない。大学卒業後、勤務した奈良県庁では、和風の堂々たる県庁舎と設計している。

ちょうどその頃、京都では伊東忠太が平安神宮を建てていた。

そして、長野がこの大倉山精神文化研究所を建てている頃、伊東は築地本願寺を作っていた。

長野と伊東は同じ年に、長野は新潟県高田市に、伊東は山形県米沢市に生まれ、大学では、1年違いだが、親しくしていた。

二人は同じ時代に同じ空気を共有していたことがわかる。

装飾に埋め尽くされた庇の先端。

 

大倉と長野が東洋と西洋の精神文化の融合を求めて、追求した先に見えたのが、ギリシャ文明より1.000年も古いミケーネ文明だった。

ミケーネ建築の最も特徴的な要素が先太りの円柱だった。

波のような、渦のような、どこに由来するのか、出所不明の装飾。

東洋でもなく西洋でもないその先にある文様を模索していたのだ。

ドア内側も装飾で埋め尽くされている。

下の大きな渦から二つの小さな渦が吹き出している。

ドアを開けて中に入ると、いきなり階段が次の入り口へ導いてくれる。

1階ホール周りだけ、黒い自然石が使われ、荒々しい雰囲気になっている。

階段を上がりきった所に集会室に入る扉がある。

階段の手すりにも入口ドアと良く似た彫刻がある。

1階の奥に回ると、上太の柱。

不思議な扉。

階段の手すり子にもミケーネ式の上太の小さな柱が連続している。

1階ホールから上を見あげると黄色い光が満ちた吹き抜けが見える。

1面4本づつ、計16本の円柱が屋根を支えているが、その円柱を支えているのは16匹の動物の彫刻だ。

動物の彫刻はそれぞれ1本づつ円柱を支えている。

よく見ると、獅子と鷲が代わり番こに並んでいることがわかる。

2階の吹き抜けを囲む手すり。

集会室を取り囲む石の装飾。入り口にあった、S字の装飾を立体化したような装飾。昔の西洋の裁判官などが被るカツラ、あの髪の毛を想像してしまう。

それにしても、独創的な彫刻ですね。

石とは思えません。

もしかしたら、大倉が製紙会社の社長だったことから、製紙のプロセスに関係した造形かもしれない。

新聞の印刷に使う紙、輪転機にかける紙が思いうかぶが、果たして、大倉製紙が新聞用紙を作っていたかはわからない。

階段の手すり。

そして、いよいよ集会室への扉。

扉の装飾もあの巻き毛もよう。

集会室の天井。木の天井、それを支える斗栱のような部材。

そして斗栱を支えつ円柱。ここに長野が作った西洋と日本の融合した空間だできたのですね。

ここで講演会や演奏会が行われていた。

今も、市民の各種会合に使われている。

 

長野は建築設計の傍ら、和歌にも精進したが、最後に詠んだのが、

 

  アテネより伊勢にと至る道にして

        神々に出あひ 我が名なのりぬ

 

随分、意味深な詩ですね。

長野の一生がここに凝縮しているような気がしますが、いかがでしょうか。

 

これは、記念館の左側の側面。

「大倉山記念館」の文字が見える。

 

研究所は大倉の私財で建設・運営されてきたが、戦後は財政難に陥り、1981(昭和56)年横浜市に土地を売却し、本館を寄贈した。

研究所と図書館はそのまま残され、横浜市は、改修の上、文化施設として1984年記念館として公開。以降、地域に密着した施設して各種集会場、演奏会場などとして活用されている。特異な建築のため、映画やテレビドラマのロケ地としても活用されている。

 

長野宇平治の末娘の礼子さんがポルトガル人のヘンリー・フェルナンデスと結婚、その息子、つまり長野宇平治の孫マルコス・フェルナンデスは横浜生まれ、カリフォルニアでミュージシャンとして活躍している。

彼は、祖父の業績を知り、祖父の残した建築を訪ねて、横浜、松江など4 都市に長野が残した建築で演奏会を開き、その様子は映画にもなったそうです。
 

駅前のモニュメント。

この地域はかつて太尾と呼ばれていた。しかし、大倉山が次第に有名になるにつれ、太尾をやめて大倉山を地名にするようになり、さらに、ギリシャのアテネ市と姉妹提携までしてしまった。

大倉山駅から続く商店街には、ギリシャ建築の柱が目に入る。

長野宇平治が、ギリシャ建築を排して、ミケーネ建築を採用したにも関わらず、地元ではギリシャ建築が盛んにが使われている。

大倉や長野は、この風景には驚いているに違いないが、これで、街が繁栄するならと笑っているかもしれない。

 

『てんとう虫』12月号に掲載

 

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コメント: 1
  • #1

    学生 (日曜日, 05 2月 2023 21:00)

    非常に面白い!

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。