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丸の内・街の歩み

空から見た丸の内 google earthより
空から見た丸の内 google earthより

 

丸ノ内とは、東京駅前に広がる広大なビジネス街のことであるが、この街が出来たきっかけはなんだったのか、なぜ、こんな街が出来たのか、そこに建つ建築はどんな経緯でできたのか、東京海上ビルが建っている街を改めて考え、その歴史をひも解いてみよう。

なお、「丸の内・街の歩み」は「丸の内の建築」の前篇です。東京海上ビルの建築を理解するためにその街の歴史をまず考えてみましょう。

 

丸の内の土地払い下げ

丸の内は、江戸時代、江戸城を取り巻く武家屋敷の一部であった。しかも、もっとも重要な諸藩の上屋敷が並んでいた。しかし、明治維新のため、藩邸は空き家となり、しかもたび重なる火災のため、焼け野原になり、さらに陸軍の練兵場として使われていた。

やがて新政府は、陸軍の施設を六本木に集約するため、丸の内は売りに出すことにした。

この時名乗りを上げたのが、三菱と三井・渋沢連合であった。

政府は一社落札を口実に三菱に一括払い下げた。

時に1890年(明治23年)であった。

 

その結果、丸の内は三菱が、日本橋は三井が拠点を構えることになり、今日までその構図は変わらない。

 

払い下げられたのは、有楽町から大手町まで8万4千坪という広大な面積だった。

この時、三菱の社長は2代目岩崎弥之助であった。

購入価格128万円は、当時は非常に高価だったため、社内から反対の声が上がったが、弥之助は「竹を植えて虎でも飼っておくさ」とうそぶいていた。

イラスト:根本孝(「東京人」2021年1月号)より
イラスト:根本孝(「東京人」2021年1月号)より

ここで、先に三菱社という会社について見ておこう。

 

岩崎家の4代

 三菱社は、この時、2代目社長、岩崎弥之助が率いていた。

 

創業者岩崎弥太郎は土佐藩(高知県)の役人であったが、明治維新を主導した薩摩、長州と親しく、英国人商人グラバーから武器を購入して与えるなどして、維新政府を助けた。

また、早くから海運の重要性に着目して海運会社を起こし、熾烈な競争を勝ち抜き、日本の海運業の王座に着く。これがのちの日本郵船となる。

その後、鉱山業にも手を広げたが、明治18年病のため没。

 

あとを継いだのは、16歳違いの弟、弥之助であった。

弥之助は21歳でアメリカへ留学、コネチカットの田舎の全寮制の学校で英語、ピューリタン精神、民主主義などを学んだ。兄の死により、帰国。社長の座に着くと、高島炭鉱の買い取りなど、三菱の社業に勢力的に尽くした。

明治18年から26年まで8年間の社長だが、重要な事業を起こし、三菱を軌道に乗せた功績は大きい。

 

丸の内の土地買い取りの決断はこの2代目弥之助である。

丸の内を買い取るとすぐに当時お雇い外国人として東京帝国大学で教えていた建築家ジョサイア・コンドルを招き、レンガによる一流のビジネス街の建設に着手。同時にコンドルの一番弟子、曽禰達蔵を社員として雇用、コンドルを助けた。

 東洋美術、書画、骨董を買い取り、静嘉堂文庫の基礎を作ったのは、弥之助である。

 

3代目の久弥は創業者弥太郎の長男だが、慶應義塾卒業後ペンシルバニア大学に留学し、帰国後、三菱の社長に就任すると、長崎造船所の近代化、キリンビール、小岩井農場の設立などに関わり、さらに、アジア研究の宝庫・東洋文庫を設立し、清澄庭園、六義園を東京市に寄付した。明治26年から大正5年まで23年間の長きに亙って社長を務めた。

 

4代目は、弥之助の子、小弥太。堂々たる体躯に恵まれた彼は東京帝国大学中退後ケンプリッジ大学に留学し、帰国後、大正5年から昭和20年まで29年間にわたり社長を務めた。彼は造船、製鉄、商社、海上火災保険、銀行などを設立し、特に三菱造船、三菱電機、三菱重工などに力を入れ、三菱を重工業集団に成長させ、日本の富国強兵に寄与した。しかし、日本が第二次世界大戦に敗れ、GHQの指示により財閥解体という試練に会うと、三菱財閥はバラバラな会社に分解してしまった。

 

 

財閥解体と「金曜会」

このため、三菱という会社集団は、戦前は岩崎家が支配した強大な財閥であったが、戦後はバラバラの会社がゆるい連絡組織のもとで協力しあっている状態になっている。それを束ねているのが「金曜会」。

三菱商事、三菱重工、三菱UFJ銀行の三社が御三家として顔あわせをしているが、現実には個々の会社が株主の顔色をうかがって利益を追求する単独の会社の集合体になっている。

 

戦前の財閥時代には岩崎家の社長が独断で事業を起こしたり、文化事業を始めたりできたが、戦後は普通の会社の集合体なので、大胆な文化事業などを起こす力はない。

 

例えば、成蹊大学、小岩井農場、静嘉堂文庫、東洋文庫などの優れた文化的な色彩の強い事業は、見識のある社長が率いる財閥だからこそできたことだった。

 

 

三菱グルーブの企業は、現在では、

 所属企業:4000社

 従業員 :87万人

 売上高 :69兆円

という巨大なものだ。

日本の国家予算が100兆円ほどだから三菱グループがいかに大きいか想像を絶するものがある。

左:三菱UFJ銀行 右:三菱商事

 

三菱グループの主な企業をあげると、

 三菱商事、

 三菱重工、

 三菱UFJ銀行

の御三家に続くのが・・・・・

 三菱電機

 三菱マテリアル

 三菱地所(ここから分かれたのが、三菱地所設計)

 AGC(旭硝子)

 東京海上日動火災保険

 明治安田生命保険

 キリンホールディングス

と続く。

 

我々庶民に身近な企業をあげると・・・・

 ニコン(高級カメラ)

 三菱自動車

などがある。

 

我々の身の回りは三菱電機の各種家電・クーラー・洗濯機、キリンビール、銀行・保険等三菱グループの会社の製品で囲まれているわけだ。

 

筆者は、三菱鉛筆(Uni、JETSTREAMなど)には大変お世話になっているが、この会社だけは三菱グループとは関係ないらしい。ほぼ同時期に創業し、社名、マークなど同じだが、偶然一致しただけで無関係の会社らしい。

 

こうして三菱グループの企業を見渡して見ると、その多くが重厚長大、昭和的な体質を持った企業で、現代の世界の経済を牽引しているGAFAのようなITを駆使した企業や、文化情報産業が見当たらない。

 

また、これらの企業のほとんどが丸の内に本社を構えているのも驚きだ。ほとんど社員が毎日互いに顔を合わせている。どうしても外からの刺激よりも、内向きの体質へと傾くのは致し方のないことかもしれない。

 

コンドルと三菱一号館

岩崎弥之助が丸の内を手に入れるとすぐに声をかけたお雇い外国人コンドルは大学教授の任期を終え、帰国も考えていた時だったが、設計を依頼されるとすぐに丸の内のレンガ建築に情熱を傾け、完成したのが「三菱一号館」である。

格調の高い、見事な建築である。

 

三菱一号館 明治27年竣工 写真:「近代建築史再考」新建築社より
三菱一号館 明治27年竣工 写真:「近代建築史再考」新建築社より

三菱一号館、イギリス、クイーンアン様式の、格調高い、美しい建築である。弥之助の強い意志を感じさせるものである。

竣工は明治27年、なんと丸の内の払い下げを受けて4年後にはこれが完成しているのである。弥之助の迅速な判断、最高のビジネス街を作るという確固とした意識を感じる。

 

レンガ造のオフィスビルはこの後も次々に建てられ、一号館の先に、コンドルによる2号館、曽禰達蔵に夜3号館、4号館が並んでいる。

この道が皇居の馬場先門へと向かう馬場先通りであり、突然現れた欧風の町並みを見て当時の人々は「一丁ロンドン」とはやし立てた。

明治の40年代、大正時代、昭和の初め頃までこんな風景だった。

上と同じ場所をおよそ100年後の2022年に撮影したもの。

右が再建された三菱一号館、その先に明治生命館と同じ敷地に建っている超高層ビルが聳えている。

仲通りの煉瓦街。コンドルの後を受けて、主に三菱地所の建築家・安岡勝也が設計した。

道を挟んで左右が同じデザインで向き合っている風景は珍しい。

こんなことは他ではあり得ないのだが、ここは全てが三菱の土地だったので、一人の建築家が両側の建築を設計してこんな風景が現れた。

1社が大きな土地を所有すると、どうしてもこのようにデザインを統一する誘惑にかられる。

その結果、作った建築家や地主は達成感があるので満足しても、そこに暮らす人々にとっては単調で退屈な街並みに見えてしまう。

 

こんなレンガ街の風景が明治の40年代から、大正から、戦後の昭和30年代まで続いていたのは驚きだ。

 

これが一斉に取り壊されたのは1964年の東京オリンピックの頃である。

丸ノ内ビルヂング 設計:桜井小太郎(三菱地所)1923(大正12)年
丸ノ内ビルヂング 設計:桜井小太郎(三菱地所)1923(大正12)年

ひところは、丸の内を埋め尽くしていたレンガ造のビルは、実は、個々のオフィスとしては狭すぎ、急速に進化・発展する企業の要求を満たすことができなくなってきた。

そこで建てられたのが、「丸ビル」である。

東京駅前の、一辺が100メートルもある四角な敷地いっぱいに建った、鉄筋コンクリート造のオフィスビルである。

高さは当時の建築基準法により、31メートルに制限されていた。

大正、昭和初期には、最もモダンなビルとして賞賛された。ここにオフィスを構えることは会社にとって最高のステータスであった。1階には紳士服などを商うオシャレな店が並ぶ商店街もあった。

 

レンガ造から鉄筋コンクリート造へ

ちょっと小さいが、この年表を見ていただきたい。

最上部のバーの左から、明治、大正、昭和、平成と色が変わっている。

その下、棒線は建築の建設と解体を表している。

 

赤いバーは明治末年から大正時代に作られ、1960年代に一挙に無くなっているのがわかる。ここで丸の内の風景は激変していたのである。

 

最上部の赤線は三菱一号館。

1968年に解体され、すぐにコンクリートのビルとなり、40年後に再度赤煉瓦で復元されたのがわかる。

 

上から5本目から12本までは明治末年から大正、昭和にかけて造られた赤レンガのビル8棟、1964年頃一斉に解体されコンクリートの大きなビルに建てかえられている。これが「新東京ビル」。今も健在である。

 

「新東京ビル」、三菱一号館の目の前に建っている。丸ビルと同様、一辺100メートルの正方形。8棟の赤レンガビルを解体して1967年頃できた。

丸ビルとほとんど同じ大きさだが、シンプルな近代建築になっている。

「新東京ビル」正面玄関

玄関ホール。天井の高さといい、壁面の石張りといい、なかなか豪華なものである。各階とも非常に美しく維持管理されている。

正面、玄関ホールを2階から見る。

玄関ホールの2階はギャラリーとなっている。

その日は、写真の展覧会をやっていた。

1階にはスターバックスが入っている。

 

赤レンガのビルを解体した後の丸の内は、大手町から有楽町まで、このようなビルで埋め尽くされた。つまり、1960年代から今日までの丸の内の風景は基本的にはこのようなビルで埋め尽くされている。

これは、有楽町駅に近い「新有楽町ビル」(1969年)。

有楽町駅のホームから見える。

 

このビルに建築家 大江宏が事務所を構えていた。

大江宏がここへ来たきっかけは、出身校 成蹊学園の同級生が三菱地所の役員をしており、安い部屋があるから入らないかと誘われたからだ。

 

成蹊学園は教育者中村春二の理想に共鳴した岩崎小弥太が財政的に支援してできた学校だ。吉祥寺の8万坪に及ぶ広大な敷地を買って与えたり、学校の運営資金を提供したりして、三菱の人材養成の期待も担って来た。そのため、三菱には成蹊学園の卒業生が少なくない。

 

「新有楽町ビル」の地階には、駐車場に囲われて使えない大きな空間がある、これを生かす方法を考えて欲しいと頼まれた。

日本建築を得意とする大江宏の提案は、2層分の大きな空間に庭園を作り、4方から座敷を張り出して、料亭を作るというものであった。

 

 この庭には杉の木が何本も植えられ、せせらぎが流れ、丸の内とはとても思えない、深山幽谷のような空間が現れた。

料亭「胡蝶」である。

この料亭は一人2〜3万円もしたから、庶民には縁のないものであったが、おそらく三菱グループの応接間のような使い方がされていたのではないだろうか。

「胡蝶」は30年間ほど営業されていたが、いまはない。丸の内のビル街には異色の建築であった。

 

新有楽町ビルの地下にあった、料亭「胡蝶」
新有楽町ビルの地下にあった、料亭「胡蝶」

「大手町ビル」長さ205メートル、幅56メートルというウナギの寝床のような長いビル。単調な長い壁面を恥じているかのように、2021年にリフォームして外壁を分割して少しづつ色やデザインを変えている。

同じビルを反対の方から見ると、まるで別のビルのように見える。

地下の商店街だ。一直線の廊下は200メートルもあるので、ともかく長い。

 

このビルは丸の内の北のはずれ大手町。

三菱地所の所有する土地と建築は有楽町から大手町まで、この調子で続いている。

 

丸の内と三菱地所

改めて、丸の内の全体を見ておこう。

三菱に払い下げられた丸の内の土地は、三菱の中の地所部が管理していたが、次第に「三菱地所」として独立し、さらにその中の設計部門が「三菱地所設計」として独立している。

 

その「三菱地所」が管理している土地は上記の地図の着色した部分である。

左端の有楽町から右端の大手町まで続いている。

特に仲通りを中心に集中しているのがわかる。

興味深いのは、左上から、「第一生命館」「明治生命館」「東京海上ビル」などの特徴ある建築の敷地が三菱地所の手から離れていることがわかる。

 

この黄色の部分が全て三菱地所の所有地、その全てを三菱地所設計一社で設計してきた。こんな広大な敷地をたった一社で所有し、設計してきた例は他にないだろう。そのため統一した景観はできるが、当然、単調になるのはさけられない。

 

20世紀も終わり頃になると、この「三菱地所」の管理しているビル群がその単調さのために次第に飽きられ、夜間や土日にはまったく人気のない、寂れた街になってしまった。

  

この状況に危機感を抱き、この状況を挽回すべく三菱地所が考えたのが、まず、東京駅の保存・改修に合わせて、丸ビルと新丸ビルを超高層ビルに建て替えるというものであった。

そのため、東京駅前にはこの巨大なビルがそびえる風景が現れた。

丸ビルは取り壊して、超高層の新丸の内ビルディングとなったが、低層部は旧丸ビルの形を踏襲したから、敷地を全て覆った、いわゆる暮石型のビルになっている。

新丸の内ビルディングは、大きなスペースを用意して、仲通りへとつなげている。

時々イベントが催されている。

三菱地所が考えたのが、まず丸ビルを超高層ビルに建て替え、ビジネス専用から商業的要素を大幅に増やして人を呼び込む、さらに、その人流を仲通りへとつなげて、土日も人の溢れる街にしようというものであった。

 

そのため、2000年頃から、

 仲通りのビルの1階に飲食店やブランドショップを入れる。

 仲通りの車道を狭くし、歩道を広くする。

 そこに街路樹を植えて、木陰を作る、などの工夫を進めた。

 

こうして、次第に丸ビルから仲通りへかけて、人を呼び込むことに成功した。平日の昼間には、オフィスからビジネスマンたちが繰り出して、路上で昼食を楽しむ風景が定着して来た。

日本では、かつてなかった風景だ。

 

休日にも、人が来るようになり、見違えるような賑わいが見られる。

 

昼食時には車は追い出され、車道にもテーブルが並ぶ。

街路樹も適度に茂り、木陰を作っている。

仲通りの大手町に近いあたり。この辺は静かで落ち着いた場所になっている。

ビルの1階にこういう賑やかな店が入って、丸の内のイメージを変えたことは確かである。

平日の昼間、会社対抗の綱引きが行われていた。

かつては、銀行などが入っていた1階にブランドショップを誘致した。それはある程度成功した。しかし、気取った店ばかりだ。

 

三菱地所としては、こうして丸の内の街の活性化、人の来る街に、ある程度成功したと言えよう。

しかし、あくまでも、三菱地所の大変な努力のもとで成し遂げられた状況であり、住宅のないこの街に人を呼び込み、活性化するということは大変なことである。

 

元は、1社で広大な土地を所有したために、単調な街になってしまったことにある。それを活性化するために、オフィス専用の街に商業的要素を導入して活性化しようとしている。

どうしても自然発生的に変化が生まれることはなく、競争が起きることもない。そんな状況をいかにして作り出し、維持することができるかが課題となる。

 

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。