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東日本大震災10年後の現実

▪️女川

10年目の被災地へ行ってきた。

単線のJR石巻線で、仙台から2時間ほどの終点の駅。女川(おながわ)。

高さ14.8メートルの津波により、人口約1万人のうち827人が犠牲になった。

建物の8割が失われた。

そこへ9メートルかさ上げした土地に新しい駅が作られた。

駅舎は、2015年3月にオープン。

設計は、紙管建築で有名な坂茂(ばん しげる)。

板は、震災直後に避難所を廻って、紙管を使った仕切りを提案し、さらにコンテナを積み上げた3階建の仮説住宅を建てて、信頼され、この駅舎を頼まれたという。

もとの駅舎に隣接していた温泉をここでも再現し、2階に「女川温泉ゆぽっぽ」をつくった。

屋根は構造合板を網目に編んで、その上に半透明のシートを張った軽快で、明るい構造になっている。

簡単でわかりやすい構造システム。

ありました。板さんお手の物、紙管のベンチ。

天井も紙管でした。

残念ながらお風呂は撮影できませんでした。

全体は、カモメが飛んでいるような軽快な姿を表現したという。

駅からまっすぐ港へ続くメインストリート。

ここが再建女川の中心になる。

女川の中心商業施設「シルパルピア女川」

広いプロムナードを挟んで、木造5棟、鉄骨造1棟、計6棟の平屋が並んでいる。

ランダムに配置された、建物の間に心地よい小さな広場が用意されている。

設計は、東(あずま)環境・都市研究所/東利恵。

深い軒下が陽だまりになっている。

スクリューのモニュメント

水産物の店舗や食堂がならんでいる。窓側には食卓も並んでいる。

外では、メザシを干している。

プロムナードの先端に公園とモニュメントがある。

旧女川交番である。

震災の映像がテレビに流れるたびに映された映像は、衝撃的なものであったが、とりわけ、建築関係者にとって、鉄筋コンクリートの交番が基礎の杭が引きちぎられて横倒しになっている様子は、想像を絶する驚くべきものであった。

女川町では、その交番をそのまま「東日本大震災遺構」として保存することにして、その周りを歩いて見ることができるように整備された。

女川は、港湾関係、住宅の高台移設、道路など、整備が進み、ここが、復興のシンボルとして駅と駅前の商業施設群ができたわけだ。

コロナが終息して、一日も早く賑わいがもどることを祈るばかりだ。

 

気仙沼

次に行ったのは気仙沼。駅周辺は、震災前と変わりない。

港も一見したところ以前と変わりないかのような穏やかな様子。

新しい施設もできている。

しゃれた建築ができている。

気仙沼は、震災の夜、大規模な火災で港湾地区の大部分が焼き尽くされ、死者1152人、行方不明者214人という痛ましい悲劇をもたらした。

2011年8月の写真

このあたりにこんな歌碑があった。

「港町ブルース 作詞:深津武志、編作詞:なかにし礼、作曲:猪俣公章

歌:森 進一」

「2、流す涙で割る酒は、だました男の味がする、

あなたの影をひきずりながら、港 宮古 釜石 気仙沼」

この歌碑も大きく壊れていた。

2011年8月の写真

コンクリート製の電柱がいたるところでへし折られていた。

見えるかぎり、無数の水産物加工工場が無残に破壊されていた。

2011年8月の写真

「男山」の社屋は1階2階が完全に押しつぶされ、3階から上だけが地面に残されていた。

「男山」の周辺はすべてこのような惨状だった。

しかし、地元の著名な造り酒屋「男山」の本社が見事に復旧していた。

「海の市、シャークミュージアム」も見事に復旧していた。

2011年8月の写真

被災当時の「リアスシャークミュージアム」

「気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館」

被災した気仙沼向洋高校の校舎をそのまま伝承館として保存している。

「気仙沼 東日本大地震遺構・伝承館」の入り口

残念なことに、気仙沼の中心からちょっと遠い。

校舎の中は、被災したその時をそのまま展示するものであった。

10年前の日から時計が止まっている。

ここは3階の教室。車が3階へ突入する、想像を絶する光景だ。

津波により運ばれてきた車

 震災前、この場所は「電気磁気室として使用されていた教室でした。

 目の前の被災車両は、震災当時、気仙沼市内にある(株)オートショップ加藤が所有していました。同社に板金塗装を依頼した南三陸町の方に代車として貸し出されていたものでしたが、津波によって地上からの高さ約8メートルのこの場所まで流れ着きました。

 震災の爪痕が消えていくなか、今もなお、その津波の威力とその恐ろしさを伝えています。

パソコンなどが吹き溜まりのように、折り重なっている。

屋上に避難した教職員と工事関係者

 地震が発生した時、学校に残っていた170名ほどの生徒は全員避難所へ向かい無事でした。教職員20名は、重要書類などを保護するため、この南校舎に残り、北校舎の大規模改修工事を行っていた工事関係者25名とともに、最終的にこの場所に避難しました。

 津波は幸いにも手前の冷凍工場にぶつかることで勢いが抑えられ、到達したのは4階の床から25センチのところまででした。その後、津波がぶつかった冷凍工場が校舎に向かって流されてきましたが、校舎正面への直撃を免れた(4階ベランダに激突)ことも不幸中の幸いでした。

 この机は「少しでも高いところへ」と考えて行動した証を再現したものです。校舎へ避難した方々は翌朝、流れ着いたボートを引き寄せ、全員無事に脱出することができました。

気仙沼から大船渡まで以前はJR東日本が運行する気仙沼線の電車が走っていたが、大震災で線路が破壊され、代替輸送がバスによって行われている。代替とはいえ、線路は舗装され、バス専用道路、専用のホームが作られ、当分、これでいくつもりらしい。

気仙沼線・大船渡線BRTという。もう少しわかりやすいネーミングはないのかなあ。

鹿折唐桑まで来てみた。

昔の線路は撤去され、完全にBRT専用の舗装道路になっている。

鹿折唐桑の駅前のロータリー広場

駅前のメインストリート

じつは、ここには津波に押し流されてきた巨大な船が横たわっていた。

第18共徳丸、全長60メートル、330トンの巨大な船だった。

気仙沼市では、震災遺構として保存しようという構想もあったが、市民は、撤去したいという希望が多く、2013年9月解体が始まった。

 

越前高田

次に、奇跡の一本松が残された、越前高田へ行った。

奇跡の一本松だけが、有名になっているが、ここには、松原、ユースホステルの遺構、などを含む広大な公園、高田松原津波復興祈念公園が整備されていた。

これは、津波で破壊されたユースホステルの遺構。

近くで見るとユースホステルが津波の圧力を受け止めて、一本松を救ったことがわかる。

中心にできたいたのは「東日本大震災津波伝承館」だった。

「伝承館」はこの中心をはさんで、左側が伝承館、右側が売店になっていた。

大きなゲートだ。

ゲートを抜けると、追悼の広場、芝生広場、を抜けて海を見渡す見晴台へ達する。

この巨大な建築「伝承館」は、設計:内藤廣

「伝承館」の展示。津波の力でねじ曲げられた鉄橋の部材。

破壊された消防自動車、展示は、至れり尽くせりのよくできたものであった。

しかし、展示の内容は、岩手県に限られていた。

海の近くから伝承館を見返すと小さく見える。

「海を望む場」という名前がついているが、津波さえなければ、素晴らしい景色なのだ。目の前に松原のあったところが広がっている。いまは、松原の復元を目指して、松の幼木が植えられている。

 

大船渡

大船渡は大きな入江に面しているので、牡蠣、ホタテ、ほやなどの養殖が盛んに行われている。

市の中心部は復興が進んでいるように見える。

仮説のようにも見える復興商店街ができている。

その中に次のような碑が立っていた。

 

 大震災の前

 ここに

 須崎 茶屋前 南町 浜町

 というかぐわしき

 四つの町ありき

 あの懐かしき

 よすがを

 この碑に映さん

  2018年4月28日 しらせ会

 

親しんできた町を失った悲しみがジンと伝わってくる言葉だった。

しらせ会というのは、平成2年に南極観測船「しらせ」が大船渡に入港する際、地域を盛り上げようと須崎の商店会や有志らでつくった会員制の組織だそうです。

須崎はかつては、魚市場があり、多くの漁船が入港し、漁師が立ち寄り、デパートや映画館もあって、活気に溢れていた。

大震災では、18人が犠牲となり、全家屋が流失し、町内会は解散し、「しらせ会」がその代わりに地域コミュニティを支えたという。

 

以上、ほんの断片的な見学でしたが、見なければわからないことも多く、大変勉強になりました。

以上、被災地の一日も早い復興を願いつつ、ご報告させていただきます。

 

関連ブログ記事

気仙沼、あの日を忘れないために

 

 

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。