松濤美術館を見る

渋谷区立松濤美術館 設計:白井晟一 1980(昭和55)年
渋谷区立松濤美術館 設計:白井晟一 1980(昭和55)年

白井晟一は、1905(明治38)年生まれ、1983(昭和58)年没、享年78歳。

この松濤美術館は75歳、最晩年の作品である。

ここには、異端の建築家・白井晟一の建築の特徴がぎっしり詰まっている。

渋谷区の松濤という高級住宅地の中の住宅に囲まれた狭い敷地にも関わらず、壁面を大きく湾曲させ、前面に豊かな空地を確保して、両腕を大きく拡げて来館者を招き入れるような正面になっている。

大きく張り出した金属の垂木が並んだ庇。

湾曲した石張りの壁面。

その中央に金属の縦格子のエントランス。

金属と石。出る湾曲と引っ込む湾曲。

和風を思わせる庇。洋風の壁。和と洋。

それほど大きな建築ではないのに、大きく豊かな空間を感じさせてくれる。

この門番小屋のような石の固まり。

石を積んだのでもなく、貼付けたにしては凹凸の激しい、不規則な石の固まり。

伸びやかな、正面の壁面と対照的にごつごつした不思議な存在感。

国産の石を検討した結果、白かグレーがどうしても気に入らず、この壁に相応しい石を求めて、白井は韓国ソウルまで足を運んだ。

ここで出会った赤い花崗岩を気に入って、自ら「紅雲石」と名付けてこの外壁に採用した。

凹凸のある、素朴な手作り感満載の石の壁。

石の幅を層によって変化をつけて、横のラインを強調。

中央には磨いた石のベルトを通して横線をさらに強調している。

その姿はベルトを締めてキリッとした姿で、パリの林芙美子の前に現れた若き日の白井晟一を思わせるものがあるが、しかし、その話は後に残しておこう。

長谷川堯が美術史の用語で「フロンタリテ」とよんだ、端正な正面性。

たんなるシンメトリーとか、左右対称では言いたりない、見るものを強く包み込むような力強い正面だ。

正面の壁面の大きさに比して、なんとも小さい入り口だが、これが正面玄関だ。

ここには、20世紀の建築を代表するモダニズムの特徴はまるで見られない。

そのため、モダニズムの建築になれた人には、非常に違和感を覚えるに違いない。

構造と表現の一致、経済性、合理性を求める近代建築の倫理感がここにはまったく見当たらないからだ。

白井晟一はモダニズムとはまったく異なる価値観で建築を作ってきた。

正面の左側にある門番小屋。

使われていないようだが、石の固まりのような不思議な存在感。

そこに「松濤美術館」の名前が彫り込まれている。

この形からすると、キップ売り場のようなものではないことがわかる。

この小さな丸い窓も何の役割をしているのか分からない。

前面広場の反対側は石の塀で囲い込まれている。

中ほどに水飲み場がある。

よく見ると、壁と同じ石を磨き上げ、さらに球体を4分の1カットした形になっている。

蛇口に彫り込まれたラテン語。

どうやら水飲みという意味らしい。

いかにも白井らしい遊び。

なんとも不思議な蛇口だ。

どうすれば水が出るのかまったくわからない。

さあ、いらっしゃい、と玄関が招いている。

1階平面図

玄関を入ると小さな玄関ホール。

右が受付、左がホールへの入口。

正面は中庭のブリッジに向かっている。

天井一面に不思議な光が漂っている。

天井の光は薄くスライスした大理石を通して降りてくるものだった。

大理石は薄くスライスすると半透明になり、光を通すのだ。大理石の縞目を透過した怪しい光が天井のあたりにまとわりついている。

奥のアーチから玄関ホールを振り返る。

重厚な壁に空いたアーチのドームが石造建築のような印象。

楕円形の鏡。白井は楕円形が好きだ。西洋建築では、楕円形はバロック建築が好んで使ったかたちであることはよく知られている。

玄関ホールを真直ぐ進むと、中庭に架かるブリッジへと向かう。

だが、ドアは開かず。ブリッジへ出ることはできない。

残念。

中庭を見上げる。

住宅に囲まれた美術館は外側に窓をつくることができない。そこで白井晟一は大きな中庭をつくり、中庭から採光することを考えた。

中庭は地下2階から3階まで突き抜けている。

楕円形の中庭を空中で横切る湾曲したブリッジ。

このブリッジが単調な中庭の空間をきりっと引き締めている。

中庭を取り巻く14本の四角い柱。柱には、ギリシャ建築の柱のように、フルーティングという溝が切られており、垂直感を強調している。

柱はアルミ押し出し材が使われており、存在感は十分。

中庭の底は池になっており、噴水がつねに水に波紋を描き、静かな中庭に絶えず動きを演出している。

「静」の印象の強い建築のなかで、ここだけが「動」の印象を出したいる。

エントランス・ホールからロビーに入る。ありました。楕円形のまど。

床への映り込みまで計算されているようなデザインだ。

2階のエレベーターホールにも楕円形の鏡。

繰り返す楕円。どこまでも曲線に導かれて流れるように続いている。

楕円の鏡、曲線の梁、楕円の中庭に面する窓。

曲線に導かれて、動いてゆく。

階段室。

楕円の壁面に写る怪しい光。複雑な手すりの曲線。

階段は白井のもっとも得意とする場所だ。

照明器具ひとつでこんなに魅力的な雰囲気を出せる建築家は他にいない。

 ここには、メインの展示室を紹介することができないが、じつは、ここでは、展示に合わせて茶菓の提供が予定されていた。当初はそのように、懇談しながら作品を鑑賞できたようだが、今はその設備も使われず、普通の貸し画廊のように単純な展示室となっている。

 計画した人、設計した人の高い志は忘れ去られ、なんとも残念な使い方になってしまっている。

 

 渋谷区はこの美術館の計画にあたって、建築家を誰にするか、運営をどうするか等、協議するために準備懇談会を設けた。

 懇談会は土方定一を中心に、渋谷区に縁のある美術界の代表者7人(堀内正和、脇田愛二郎、千沢梯治、芦原英了、亀倉雄策、大久保泰)という錚々たるメンバーで構成された。

 不思議なことに、この懇談会には白井晟一も加わっていた。

 白井が始めから加わっていたのか、懇談会から推薦されて途中から加わったのかよく分からない。

 

 松濤といえば、渋谷区でも高級な住宅地である。

 この中の住宅に囲まれた敷地に、建築面積150坪ほど、高さ10mの制約の中に計画は進められた。

 この中に美術諸分野の実習室、デザイン教室、資料研究の図書館、映画室、などが要求されたという。

 白井の提出したプランは、地上3階、地下2階、玄関前を大きく湾曲させ、建物の中心に地下から最上部まで突き抜ける楕円形の中庭を設けるというものであった。

 

 それは、区が当初用意した予算の2倍の工費を要するものであった。

 普通なら予算に合わせてコストダウンを要求されるはずだが、不思議なことに、区は、何の条件もつけずに白井の要求した予算を認めたのである。たしかに、1980年といえば、日本経済は空前の好景気であったが、それにしても公共建築で、予算の2倍という話が簡単に通るはずがない。

 

 どう考えても、建築家白井晟一のカリスマ性がものをいったに違いない。

 白井のカリスマ性について、松井田町役場(1956)の設計にさいしてのエピソードを建築評論家の川添登が紹介している。

「松井田町の場合には、…町議会が一致して設計変更を要求することにした。けんけんごうごうの論議がされている町議会へ彼は遅れてはいってきた。議場は静かになり、議長がみんなの意見を伝えた。「それはできません」たった一言であった。議場はシンと静まりかえり、さっきまでさわいでいた議員のだれもが、白井の信念を見せた確固とした態度に圧っせられて、一言も発言できなかった。白井はそのなかをさっと退場してしまった。」(『建築家・人と作品 上』川添登、井上書院)

 松井田町役場は竣工後朝日新聞に「畑の中のパルテノン」と社会面のトップに紹介され一躍注目を集めた。当時、白井は51歳であった。

 

 このエピソードでもうかがえるように、白井晟一の気品、信念を貫く迫力は並大抵のものではないのだ。

 

 ここで白井晟一の経歴を簡単に紹介しておこう。

 白井は、1905(明治38)年、京都で生まれた。白井の家は代々銅を扱う豪商で、「あかがね御殿」と呼ばれた屋敷に住んでいた。京都で最初に自動車を購入した男である。しかし、祖父の代で没落、父はほそぼそと銅を売り続けていた。4、5歳の頃には、黄檗山万福寺にあずけられ、作法や書の修業をうけていた。

 父が42歳で亡くなったため、晟一は姉の嫁ぎ先、東京本郷の日本画家の近藤浩一郎の家に預けられた。しかし、近藤の家が関東大震災で燃えてしまったので、京都に移転した近藤家とともに再び京都に移住。

 ここで、京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の建築科に入学。しかし、次第に哲学に引かれ、京都大学の深田康算に師事。卒業後、師の勧めもあってドイツ、ハイデルベルク大学に入学。カール・ヤスパースのゼミに通う。

 この間、パリに出かけて、そこで林芙美子に出会う。

 

 白井の設計した長崎の親和銀行について評論家の長谷川堯が「フロンタリテ」という言葉を使って強い正面性を説明していることは先に触れたが、同時に、長谷川は若き白井が留学中のパリで当時の流行作家林芙美子に出会い、激しい恋に落ちたことにふれている。長谷川はそれを建築家のスキャンダルとして書いているわけではなく、名文家、林芙美子が若き日の白井の風貌を実に見事に描いていることを紹介しているのである。(「青春と円熟」『白井晟一の建築』1974年12月中央公論社)

 林芙美子は長い苦難に充ちた放浪生活の末、ついに『放浪記』の出版に成功し、爆発的に売れて、巨額の印税を手にして、パリを目指したのであった。しかし、冬のパリは寒くウラ寂しく、毎日帰りたいと日記に記すほど、退屈だった。しかし突然売れっ子になった芙美子には、パリ滞在中に14の雑誌から執筆依頼が殺到し、毎日執筆に追われていた。1932年の春だった。

 

 そこに登場したのがベルリン留学中の白井晟一だった。

 芙美子はS氏を「日本人にはまれな美しい逞しい軀、モノクルの似合う品の良い顔立ち、眼はすべての女の心をさそうような深い憂愁をたたえて黒く大きく」とえがき、次第に逢瀬を重ねるうちに「私の気持ちのなかには、溢れるような愛情と、狂気じみた柔らかい幸福が渦をなしている。S氏は清潔で恩雅なひとである。」(『一人の生涯』)と描く。

 S氏はもちろん白井晟一である。林芙美子29歳。白井晟一27歳。

「S氏と二人でコンコルドを歩いた」「S氏は哲学と建築を勉強して居られる由、黒いダブルブレステッドが非常によく似合うひとである。」(『巴里日記』4月14日)

「モンパルナスの駅の前でS氏と落ち合い、広い道をモンスリーの方へ歩いた。S氏、紺のガウンの上から、金具の美しい大きいバンドを締めていた。」(4月23日)

 また風邪気味で寝込んだ芙美子を見舞ったS氏は「薄桃色の美しい沢山の薔薇の花を、白い箱に入れて見舞いに見える。ふくいくたる匂いするなり。」(4月24日)

「親愛なる巴里よ!親愛なるS氏よ、私達のこの幸福をどんな風な途上にあるというのでせうか。」(5月11日)

「私はいま、Sを神様のように愛している。」(同5月13日)

「富裕なS氏はこんな街裏の景色には眉をおひそめになるだろう。」(同5月15日)

「S氏を識り、愛に溺れ、私はいったいこれからどうしてゆこうとするのだろう。」(同5月16日)

 一直線に進んできた恋は、しかし1ヶ月半ののち、突然暗唱に乗り上げる。

「私はこんな愛情には臆病になっているのだろう。私は日本の可哀想な私の家族を忘れることがどうしても出来ません。S氏よ、あなたはあなたの幸福輝くばかりの道があるのでしょうし、私には私の道があるのだろうと思います。貧しい私は、貧しい人達とともに歩む道しかありません。あなたとの、この恋の日の想い出こそ、私は永く心に銘じて、私は私の道に汲々として励みたいのです。

 あなたは肉体も精神も、すべてに亘り富裕な人です。あなたを囲む沢山のご家族をこめて輝かしきあなたの人生に、私はほんとうはすくんでしまっているのかもしれません。私を一人にしておいてください。」(同5月21日)

 こうして芙美子は晟一と分かれる。

 

 芙美子はS氏に強くひかれながらも、あきらめてパリを後にする。日本には優しく誠実な夫画家の緑敏が待っていた。芙美子はこの夫をどうしても裏切ることはできなかった。

『一人の生涯』も『巴里日記』も芙美子の創作である。決してすべてが事実ではない。しかし、芙美子の本当の日記を整理し刊行した今川英子氏によれば、『巴里日記』は、日付からそこに書かれている内容まで、ほぼ事実にそって書かれており、大筋で事実とみてよいという。

 彼女は、実物の日記を検証しつつ、二人の恋の顛末をさらに追求しているが、それは、この本にまかせて、ここではこれで筆を止める。

留学中の白井晟一(『林芙美子 巴里の恋』今川英子)より
留学中の白井晟一(『林芙美子 巴里の恋』今川英子)より

 ここでわれわれが、検討したいのは、二人の恋の顛末ではなく、芙美子の描いた若き日の白井晟一の肖像である。

日本人にはまれな美しい逞しい軀、品の良い顔立ち」

「黒いダブルブレスレッドが非常によく似合う」

紺のガウンの上から、金具の美しい大きいバンドを締めていた」

 なんと、この風貌は、松濤美術館の正面のデザインにピタリと合致しているではないか。そう、松濤美術館は若き日の白井晟一そのものだったのである。

 さあ、恐れずにいらっしゃい、と両腕を差し伸べる白井晟一そのものなのである。

 白井晟一は帰国後、徐々に建築の設計に手を染めてゆくが、本格的な建築教育を受けたわけではない。建築に手を出したのは偶然のことだった。1935(昭和10)年ころ、京都に住んでいた近藤浩一郎のこども、つまり白井晟一の姉のこどもが二人自由学園に入ることになり、東京田無の自由学園の近くに家を作ることになり、建築家に頼んで作りはじめたのだが、見ているうちに自分で作りたくなり、手を出しているうちにはまってしまった。

 それから独学で猛勉強して、設計をこなすようになった。

 

 一方、林芙美子は、帰国後10年ほどして1941年下落合に自宅を建設する。このとき芙美子は建築家山口文象に設計を依頼する。誠実な夫録敏との静かな暮らしの場であるから、白井晟一は相応しくなかったのである。芙美子はここに10年暮らし、頼まれた仕事は断ることなく膨大な作品を生み出し、1951年47歳の若さでこの世を去ってしまう。「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」とは芙美子が好んで書いた句である。芙美子が『巴里日記』を書いたのは1947年であるから、彼女の白井にたいする気持ちは生涯かわらなかったと思われる。

 

 白井晟一が本格的に建築を設計しはじめるのは、芙美子が亡くなった51年にできた秋の宮村役場あたりからである。その後30年が白井晟一の建築家としての活躍期である。不思議なことに芙美子が亡くなる年に出版した小説に「浮雲」と「めし」があるが、白井晟一は1953年に秋田県湯沢の稲住温泉の和風建築に「浮雲」という名前をつけている。また、1956年に『モダンリビング』に「めし」と題したエッセイを発表している。白井も芙美子への気持ちを持ち続けたに違いない。

 

 改めて松濤美術館の正面を眺めてみよう。確かに「黒いダブルブレスレッドが非常によく似合う」紺のガウンの上から、金具の美しい大きいバンドを締めていた」という芙美子が描いた若き白井の風貌とピッタリ合致しているように見える。

 

 長谷川堯が、林芙美子の描く若き日の白井晟一を、大成した白井晟一の建築に見たのは、1974年、佐世保の親和銀行本店を念頭においていた。そして、松濤美術館ができたのはそれから6年後の1980年。長谷川は松濤美術館のできる6年も前に、そのデザインを予見していたかのような評論を書いていたのである。

 あるいは、白井晟一が長谷川の論に導かれるようにしてこの正面をデザインしていったのだろうか。

 我々は、老成した建築家の胸に秘めた想いと、気鋭の評論家の眼力の壮絶な戦いをここで見せられているのである。

 松濤美術館は、白井の芙美子に捧げる壮大な愛の讃歌なのだろうか。それとも彼女に捧げたレクイエム(鎮魂歌)だったのだろうか。

 美術館の前に立って、こんな想像を巡らしてみるのも楽しいのではないでしょうか。

 

参考図書

(白井晟一の建築については、参考資料が多すぎるので、パリの恋の顛末だけに絞って、資料を紹介する。)

『林芙美子全集 第4巻』文泉堂出版、1977年4月

『白井晟一の建築』1974年12月中央公論社

『林芙美子 巴里の恋』今川英子、2001年1月、中央公論新社

林芙美子の自宅については、「林芙美子邸を見に行く」を参照してください。

 

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。

 

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