林芙美子邸を見に行く

林芙美子邸 設計:山口文象 1941(昭和16)年
林芙美子邸 設計:山口文象 1941(昭和16)年

西武新宿線中井駅から徒歩7〜8分、閑静な住宅地に一段と奥ゆかしい、石垣と土塀の住宅が現れる。土塀の中ほどが切り開かれて門へ登る石段が出てくる。

入口は門と勝手口の二つがある。敷地全体は南向きの斜面で家の北側はかなり急な崖になっている。

門のたたずまいは、とくに威張ったものではなく、さりげなく気品がある。

来客の多い女流作家の屋敷のたたずまいとして見ると、興味深い。

森光子の主演で2000回の公演をこなした林芙美子の『放浪記』。自らの極貧の体験を綴った名作、100年後の豊かな時代にも人々から愛されている。

芙美子は『放浪記』のヒットで貧乏生活から抜け出し、一躍流行作家になる。

民家のような野太い格子だ。

玄関までのアプローチはまるで山道のような急な登りだ。

玄関前から振り返る。さりげなく収まっている。

この家は、1940年、すでに戦争直前の建築制限30坪の制約のなかで建てられた。このため、芙美子の名義の主屋(右半分)と、夫の名義のアトリエ棟(左半分)との二棟を造り、勝手口で繋いでいる。

こんなことの出来たのも、芙美子が売れっ子の作家だったからだ。

1903(明治36)年下関に生まれた芙美子は、テキ屋の父親が芸者を連れ込んだ生活に耐えられずに、家を出た母親に連れられて、各地の木賃宿を転々とする暮らしを強いられる。

安住の地が欲しい、それは芙美子の半生から得た痛切な願望であった。

一人で身寄りのない東京へ出たのが19歳。その後も女給、下足番、子守りとその日暮らしの宛のない生活を続けたが、その体験を綴った『放浪記』が爆発的なベストセラーとなったのをきっかけに、1930(昭和5)年ここ落合の地に定住する。

この家を建てたのは1941(昭和16)年、38歳の時である。朝からひっきりなしにやってくる原稿依頼、催促の編集者を迎えるため、玄関は広く、右の客間へも左の茶の間へも抜けられるようにできている。

いまでは、原稿の依頼はメール、脱稿した原稿もデータで送ってしまうが、当時は、打ち合わせも原稿の受け渡しも直接作家の家に行かなければならなかった。

芙美子のような流行作家になると、各社の編集者がここを上がった客間で待たされることになる。原稿を受け取った編集者はすぐに印刷所へ駆け込むことになる。

3畳ほどの畳敷きで2面が瓦敷きの土間に面し、奥の客間に通じている。他では見たことのない、不思議な玄関だが、客の多い芙美子の要求を見事に満たしていたに違いない。

玄関脇の小間。当初は母のキクが使っていたが、のち、書生、さらに客間の別室としても使われたらしい。

玄関脇の小間には、やっと東京へ呼び寄せた母を住まわせたという。

茶の間は南向きの、庭を眺めるもっとも居心地のよい場所を占めている。

茶の間をL時型に囲む、1間幅の、開放的な縁側。

この住宅のなかでもっとも居心地のよい場所かもしれない。

この家を建てるために芙美子は200冊の参考書を買って情報を集めたという。

その情報に基づいて大工を選んだと言われている。

建築家山口文象に設計を依頼するが、なぜ、どんなきっかけで文象が選ばれたのかはわからないという。

山口文象は、1902(明治37)年、浅草の棟割り長屋に、大工の子として生まれ、中学校も行かせてもらえず、職工徒弟学校を出て清水組へ就職している。

建築家といえば、裕福な家庭でなければまず成功しないと言われ、しかも当時の建築家はほぼ100%東京帝国大学の出身者だったから、なんのつてもなく、実力と努力だけで貧困家庭から駆け上がって行った文象はきわめて珍しい経歴をもっていたといえる。

こうして見ると、文象と芙美子は生まれも一年ちがい、貧困生活から自力で最高の地位に登り詰めた経歴もよく似ている。

芙美子は『放浪記』の印税で、28歳で単身シベリア経由パリへ向かうが、文象も28歳でシベリア経由で欧州を目指し、モダニズムの旗手グロピウスのアトリエに入っているから、二人は偶然全く同じ時間を欧州で過ごしているのである。

芙美子が境遇の良く似た、そんな文象に共感をもって設計を依頼したとしてもおかしくはない。

茶の間には、小さな棚が細かく造られ、芙美子のこまごまとした生活の要求をていねいに満たしている。

芙美子の肖像は沢山残されているが、その多くは着物姿である。住宅も和室を基本として設計されている。茶の間の中心にはちゃぶ台が置かれている。

モダニズム建築のホープであった山口文象は父親が大工、祖父が宮大工といわれており、和風住宅にも習熟していたようだ。

大きく張り出した軒裏は、数寄屋風の掛け込み天井となっている。

ちいさな竹の濡れ縁。縁側と庭をつなぐものだが、実用的というより視覚的に庭を結ぶ遊びのような気がするが、どんなものだろうか。

北向きに大きく窓を開けた台所。人研ぎ(じんとぎ=人造石研ぎだし)の流しがかすかに見える。

勝手口のあたりからアトリエ棟を見る。

主屋とアトリエ棟との間は中庭を挟んではっきりと距離を置いている。

とくに見るべき物のない普通の日本家屋ではないか、と多くの人は思うかもしれない。

林芙美子と山口文象、施主と建築家の絶妙な組み合わせの成果がこの自然なたたずまいを生み出しているのである。

文象はモダニズムの建築家として高い評価を得ていたが、庶民の感覚を忘れることなくさりげない和風も巧みにこなしていたのである。

なかなか豊かな緑に覆われた庭だ。

戦後もマスコミに追い回され、この庭を楽しむ余裕はなかったかもしれない。

アトリエ棟の寝室。

寝室の奥に次の間、書庫と続く。

寝室の床の間。

『放浪記』には20歳前後、単身東京でのあてのない暮らしで、何人もの男との同棲生活が描かれているが、23歳で画家の手塚緑敏と出会い、結婚(内縁)している。その後は誠実な緑敏に支えられ、執筆活動に専念することができた。

次の間には芙美子のお気に入りのインド更紗を貼った置き押入れに目を奪われる。

書斎は雪見障子となって、執筆に集中する芙美子が目に見えるようだ。

便所に通じる廊下と濡れ縁。葉欄をそえた手水鉢がさりげなく置かれている。

北向きの、深い土庇で覆われた廊下は落ち着いた空気が漂っている。

執筆に疲れた芙美子の気を休めたにちがいない。

ここにしゃがんで朝一杯の冷や酒を楽しんだとも言われている。

この一角だけでも、独特の風情がある。

芙美子は文象に対して、「風通しのよい家にしてください」と要求したらしい。

和風建築のもっとも魅力的な部分である。

やさしかった夫、緑敏のためのアトリエ、いまは展示室になっている。

北側の光を大きく取り入れている。

ランプのデザインは文象の手になるものだろうか。このあたりにやっとモダニズムの香りを嗅ぎ取ることができる。

トップライトと北窓、大胆な構成だ。

なぜか、先ほどの茶の間の縁側とは大分ちがいますね。

北の崖から見下ろす主屋の屋根。なかなか美しいバランスだ。古い民家のような風格がある。

アトリエは一番奥に位置し、一段と高い屋根にトップライトが切られている。

冬になると、木々は葉を落とし、アトリエは静かな北からの光に包まれていた。

勝手口は隣の崖にピッタリ合わせてつくられている。

急勾配の敷地に寄り添うように造られた勝手口は、この家全体の造型の姿勢をよく表して、面白い。いまは、ここが見学者の入口になっている。

 

この家は幸いにも空襲を免れ、芙美子は戦後もマスコミに追い回され、多忙を極めた。しかし、そんな日々は長く続くことはなく、1951年、48歳で急死した。

この家に住んだのは戦中、戦後の10年間ということになる。

「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」

芙美子は、自分の運命を予測したかのようにこの句をよく書いたという。

 

この住宅を山口文象の作品として見たとき、てらいのない自然なたたずまいに文象の豊かな多面的な才能を見ることができるのではないだろうか。

和風住宅は長い年月の間に住み手と大工の間でせめぎあって出来上がった形式なので、簡単には崩すことができない。へんに手を加えると妙なものになってしまう。江戸東京たてもの園にある堀口捨己の小出邸には、和風のバランスを崩した奇妙な住宅の見本として見ることができる。後に数寄屋の名手として尊敬される堀口捨己だが、処女作の小出邸では、和風を扱いかねているように見える。

林芙美子邸では、創意工夫を盛り込みながらも、無理な変形を加えることなく、破綻のないバランスのよい和風住宅に仕上がっている。

文象がモダニズムの建築家として突っ走ることなく、芙美子の気持ちに寄り添って丁寧に想を練った結果にちがいない。

 

江戸東京たてもの園には前川国男邸があるが、これは1942年の竣工、林芙美子邸とほとんど同時にできている。こちらは和風、あちらは洋風である。

前川が1905年生まれ、パリでコルビュジエのアトリエについたのが1928年。

芙美子は1903年生まれ、パリに遊んだのは1931年。

似た時代に生きた二人だが、前川は恵まれた家庭のおぼっちゃま。

芙美子は極貧の家庭から流行作家へと駆け上がった才女。

二つの住宅は昭和という時代の二つの典型と言えるかもしれない。

 

この住宅の見学をきっかけとして、『放浪記』を読んでみた。昭和初期の驚くような貧困、その中で必死にあがく女たち、自分を呪い、分かれた男を呪い、詩を理解できない編集者を罵る。一椀のめしを買う金もないのにチェホフを読み、伊勢物語を買うどん欲な文学少女。しかし、ふと、これは昔話ではないかもしれない、又吉直樹の『火花』も同じかもしれない、いつの時代にも我が身を焦がしながら文字を書き続ける若者はいるのだと考えさせられた。

 

林芙美子邸は現在、「林芙美子記念館」として公益財団法人 新宿未来創造財団によって管理、公開されている。

本ブログはここが発行しているリーフレットを参考にさせていただいた。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。

 

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