近代建築の構成要素である、鉄、コンクリート、ガラスのうち、コンクリートだけが圧倒的な迫力で迫ってくる建築だ。
丹下健三は1950年代、広島平和記念資料館(1952)、清水市庁舎(1954)、倉吉市庁舎(1957)、東京都庁舎(1957)、香川県庁舎(1958)など、桂離宮に着想を得た、繊細な和風を加味したデザインを押し進め、世界の注目を集めるとともに、全国の庁舎建築のモデルとされてきた。
しかし、突如、倉敷に従来とはまるでちがう重量感のみなぎったこの作品を送り出した。
プレキャスト・コンクリートの部材を組み合わせ、太い現場打ちの柱梁の上に載せた構造だと言われている。
なんとなく分かるような気がするが、実はどれがプレキャストで、どれが現場打ちかは判然としない。
梁の先端を飛び出させるデザインは、構造上必要な要素のように見えて実はそうではなく、あくまでも、梁の存在を感じさせるための見せかけのデザインであり、木造建築のイメージを引きずった過去の遺産である。
パルテノン神殿が石造でありながら、木造の細部を残しているのと同じだ。
人間も目はあくまでも過去の経験に基づいて見ようとするから、これもすんなりと納得してしまう。
太い梁の先端が極めて薄い二枚の梁の様な表現としている。
ここも、もし梁の太さをそのまま突き出していたら、鈍重な印象となっていたであろう。巧妙なデザインだ。
エントランスの庇。
この重量感。しかも、全体が縦横の直線でまとめている中にめくれ上がった曲面の迫力。
モダニズムの建築はほとんど明確な玄関や庇を持たない。その意味でもこの庇は極めて珍しいデザインだ。
エントランスホール
大きな階段が二階へと導いている。
この壁面の荒々しいデザインは外壁とはまってく異なるデザインだが、その迫力に再度驚かされる。
コンクリート打ち放しの壁面に大振りな凹凸のデザイン。
これが出来る少し前に、日本の建築界では「伝統論争」というものがあり、近代建築と日本の伝統をめぐって熱い論戦が戦わされた。
その論戦の最終曲面で、民衆の力強いエネルギーを表現する縄文的なものを評価する声が従来の桂離宮的な美意識を圧倒して出現したのであった。
なにか、急速に成長する当時の日本人の意識の中にそんな表現を求めるものがあったのかもしれない。
世界の建築界にも「ブルータリズム」という荒々しい表現を主張する一つの動きがあったことも確かだ。そんな動きと呼応していたかもしれない。
しかし、日本では、岡本太郎の言い出した縄文土器に見られる力強いエネルギーへの共感が大きな影響力をもっていたかもしれない。
従来の弥生的な美意識を蹴飛ばして、一気に縄文的な美意識が出て来たかんじだ。
おそらく、日本の経済的な成長に裏打ちされた豊かな物資が街にあふれてきた状況が、自信となってそんな気分を後押ししたのではないだろうか。
北側に抜けると、アーケードのようなスペースになっていた。この建築は、不思議なことに北側にも入口があった。
北側には広い駐車場があり、こちらの方が主な玄関として利用されているのかもしれない。
この建築、丹下健三の設計で、1960年に倉敷市庁舎として造られたが、急速な人口増加のため、たちまち狭くなってしまい、20年後には、別に市庁舎を造らなければならなくなってしまった。そこで、そのあとに美術館としての利用がきまり、地元の建築家・浦辺鎮太郎によって美術館に改造された。
しかし、慎重な改修によって、丹下のデザインはよく残された。
今日の目で見ると、1960年といえば、前川国男の東京文化会館(1961)と同じ時期の建築ということになる。
ともに力強く、大きなホールをもつ、自信に満ちた作品だ。
両人にとっての代表作といっていい。
前川国男がレンガを多用して落ち着いた雰囲気を造ろうとしているのに対し、丹下健三はコンクリートだけで力強い表現に徹している。
また、前川国男の作品が時代を超越した質の高さを今も少しも変わらず漂わせているのに対し、丹下健三の作品はあの時代の最先端を突き抜けるような表現が、当時は新鮮な迫力を持って他を圧倒していたように思われるが、今になってみると少し色あせて見える。
この差はなんだろうか。やはり建築家としての姿勢の違いだろうか。
つまり、前川国男は使用する市民をつねに意識しながら設計をすすめたのがよくわかるのに対し、丹下健三は世界の建築界という大向こうのうけを狙って設計を進めたようにみえるのだ。
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