奥の細道、山寺に登る

東京から新幹線で2時間半。山形から仙山線で15分。

山寺の駅を降りると、目の前にそびえる岩山、そして数々の堂宇。これぞ山寺か。

意外に簡単に来てしまったではないか。

おお、さっそく長い階段だ。

そうか、山寺は「立石寺」(りっしゃくじ)というのが本当なんだ。正式には、宝珠山立石寺だそうだ。開山は慈覚大師、860年。

おお、そうだ、そなたは芭蕉、松尾芭蕉ではないか。かの「奥の細道」の旅の途中ではないか。そうだ、芭蕉は尾花沢まで行って、人にすすめられて7里の道を引き返してきたのだった。7里といえば27kmの道をとって返した。もちろんテクテク歩いて。

あの旅は弟子の曽良(そら)をともなった二人旅であった。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

そうか、何よりも、この句によって山寺は世に名高い名所になったのだ。

奥の細道のなかでもピカイチの名句がここで生まれたのだ。

それにしても、なぜ「静さや」ではなくて「閑さや」としたのか。

姥堂。ふむ、なかなか。

マニ車のついた卒塔婆。子の平安を願って奉納したにちがいない、あるいは、なくした子のあの世での平安を願ってか。

大きな岩が行く手を遮る。すごい石段だ。

この累々と重なる石の、なんだろうか?墓石のような、塔婆のような、たぶん死者をとむらう石碑の群れだろうか。なにか濃厚な思いが詰まっているぞ。

杉木立と折り重なる岩、石段。なにかひたすら人々の願いを込めた石の道。

おお、まだまだ岩に彫り込んだ石の碑文の数々。芭蕉の時代にもあったのだろうか?

まだまだ。芭蕉はなにを思いながらここを登ったのか。芭蕉はただ「静か」と感じたのではなく「閑か」つまり俗世間から隔てられた別世界の空気を表現したかったのではないだろうか。

つまり、ただ静かではなく、門の中に木がある「閑」、結界のなかの精神的な静かさが閑かなのではないのか。

ここへくれば、自然にそう見えてくる。

おー、仁王門が見えてきたぞ。

さらに続く石段。上に見えるのが奥の院か。

仁王門を埋め尽くす、千社札。

なんと優美な仁王門の屋根。もちろん昔は藁葺きだったにちがいない。

浸食された岩、松。これが山寺の風景だ。

ついに奥の院にたどり着いた。

おお、みごとなエレファント。いったい江戸時代の大工がなんで象を知っていたのだ。じつは、5代将軍吉宗は大の異国趣味。象を輸入して、江戸まで連れて来て見せ物にした。象は江戸時代にはよく知られていた。

開山堂、左の崩れそうな岩に乗った赤い小さなものが納経堂。

これぞ山寺立石寺の決定的なシーン、絵にしたくなる構図だ。遠景に古街道が見える。

これこそ山寺の岩。蝉の声がしみ入るのはこの岩か。ここは修行僧だけが登ことが許されている岩の道場。

川をはさんで、遠く街道を見る。川の向こう、右手に「風雅の国」が見える。

五大閣。何をするところだろう。多分展望台であろう。昔から人々はここに立って来し方を遠望し、俗世間から隔絶した環境を実感したに違いない。

なかなか見事な展望台をつくったものだ。下からもよく見えたものだ。

床下は補強がしてあった。それにしても簡単な構造だなあ。

 

ついに宿願の山寺に登った。意外に簡単に登れた。72歳の年寄りにもたいして苦ではなかった。

しかし、その中身は意外に濃厚であった。そこには人々の祈りが、悲しい体験を背負った人々の祈りがぎっしりと詰まっていた。そこは死のイメージが充ちていた。死者のもの言わぬ思いが詰まっていた。岩のなかに封じ込められていた。蝉の声がしみ込んだのは、そんな岩だった。

からっとした夏山をイメージしていたのだが、来てみると、まったく違った。ここへ来てみて、芭蕉の名句が別の顔をもって心にしみ込んで来た。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。