北欧建築をこよなく愛した森田茂介先生

本稿は、「北欧 建築・デザイン協会」の求めに応じて、機関誌「SADI NEWS 45」(2020年11月4日発行)のために書いたものです。法政大学で教えを受けた恩師に感謝の気持ちを込めて書きました。

森田茂介:

1911(明治44年)〜1988(昭和63年)東京帝国大学卒業後、土浦建築事務所、住宅営団、建設省戦災復興院、市浦建築事務所を経、森田建築研究所(後、森田服部建築設計事務所)開設。30年にわたり、500戸を越える住宅設計に携わった。法政大学名誉教授・SADI 設立発起人、SADI 創立時理事

 

森田茂介
森田茂介

 

 

ユニークな課題

 教室は知識や情報を切り売りするところではない。自分がいま考えていること、悩んでいることを学生とともに考えるところである。森田先生は教育というものをこのように考えていたのかもしれない。

 学校の設計課題に際して、教室の南側に廊下を置くのが合理的じゃないかと問いかけて学生と真剣に議論したり、視覚障害者のための住宅を設計しなさい、と課題を与えたり、資料を探しても決して答えの見つからない課題を与えることが多かった。

 卒業後50年たっても、森田先生の授業は分からなかったという卒業生は少なくない。

 森田先生の思い出を書くように求められたこの機会に恩師森田茂介という建築家の本当の姿を改めて見直し、描いておきたい。

 

 

 

父 森田茂吉
父 森田茂吉

父・森田茂吉の生き方

 森田先生の父親森田茂吉は、1865年(慶応元年)淡路島の千石船をもつ廻船問屋の家に次男として生まれた。

 飛び抜けた秀才だったので、東京帝国大学法学部へ進み、家業が傾いたため貧困の中苦学の末卒業すると、公務員になり、またたくまに農商務省商工局長まで勤めた。

 伝記によると「茂吉は因習や情実を排し、権力や金力にひるまず毀誉褒貶を度外において、真に良しとする所を断固として行った」という。このため上からの信頼は厚かったが、敵も多く、17 年目43 歳にして官界から身を引く。

 その後は、乱立していたセルロイド業界を再編し、統合した大日本セルロイド(現ダイセル)社長としてセルロイド人形を世界に輸出できる産業に育て、さらにセルロイドの新規事業として写真フィルムに着眼し富士フイルムを創業して大企業に育てた。

 

 引退後、昭和11年箱根仙石原に山林・原野2,000 坪を入手して別荘を建てた。そこから台ヶ岳、冠ヶ岳、小塚山の箱根の三嶽が眺められるので、「三嶽荘」と名付けたという。1961年98歳で静かに息を引き取っている。*1

 

建築に進んだ動機

 森田先生は茂吉の8 人の子のうちの4男として、1911年(明治44年)7月26日に生まれている。こんな大実業家の家に生まれてなぜ建築家を目指したのだろうか。先生が子どものころ、父の茂吉は東京、小田原、箱根に次々に家を建てた。しかも、自分で図面を描き、大工に細かく指図し、気に入った庭師を入れて庭も気に入るまで作り直した。つまり普請道楽だったのである。こんな環境に育った先生が建築を選んだのは自然なことだったかもしれない。

 さらに中学生の頃、母親が購読していた『婦人之友』に掲載されていたフランク・ロイド・ライトや遠藤新の建築に魅せられていたという。この時のライトへの憧れが後にライトの事務所で修業したことのある土浦亀城の事務所へ入る動機になった。*2

 

北欧へのあこがれ

 森田先生は中学5 年のときにビョルンソンの『アルネ』を読んで北欧が好きになったと書いている。ビョルンソンはノーベル文学賞をもらったノルウェーを代表する作家であり、日本では1905年(大正元年)に翻訳が出ている。

 『ゲスタ・ベルリング物語』はさらに小さい頃から何度も読み返したという。これはスウェーデンを代表する女流作家ラーゲルレーヴの作品。

 音楽もペールギュント組曲でおなじみのグリークに親んだという。グリークはノルウェーを代表する作曲家だ。*3

 先生の小中学校は大正時代の真ん中、重苦しい明治時代を抜けて、ロマンを求める空気が充満し、女性の覚醒、民主主義を求めるうねりの時代であった。そんな空気のなかで、北欧の市民的な文学や音楽がどんどん紹介されたのだった。建築も明治の様式主義を離れ、表現主義、アールヌーボーがもてはやされた。

 こうして大学に入る前にすっかり北欧の文学や音楽のとりこになっていた。北欧建築を愛する建築家という先生の生き方はすでに大学へ入る前に準備されていたのだ。

 

大学の環境

 しかし、先生が東京帝国大学に入学するころになると、社会は次第に軍国主義の色彩を増し、建築界も関東大震災を境に大正時代のロマン主義は後退し一変して構造派が支配する重苦しい空気が漂っていた。その頃、東京帝国大学の建築学科の教室では欧米の最新の建築雑誌が持ち込まれ、近代建築の情報が怒濤のように入ってきた。オランダ、ドイツを中心にしたモダニズムが浸透してきたのである。

 しかし、そんな風潮の中でも森田先生はもっぱら北欧の建築に興味を示していたらしい。できたばかりの東京中央郵便局を見学し、設計者の吉田鉄郎を囲んで話を聞いたこともあったという。

 大学の建築学科の空気が変わったのは、森田先生より2年あとに丹下健三、大江宏、浜口隆一が入ってきてからだという。*4  彼らが一気にル・コルビュジエを神様のように祭り上げてしまった。森田と丹下の間に若くして亡くなった詩人としても有名な立原道造がいるが、彼はスウェーデンの建築雑誌“Byggmästaren”を購読しており、「卒業後、当時彼が勤めていた石本建築事務所を訪ねて、そのある号を見せて貰った」と書いている。その時、立原からもらった1938年の“Byggmästaren”を森田先生はいつまでも大切に保管していた。*5

 

 

 

パイミオのサナトリウム
パイミオのサナトリウム

アールトとブリッグマン

 

 先生は北欧建築の中でも特にフィンランドの建築を愛した。フィンランドには古代や中世がなく理想的な近代の市民社会があると考えていた。そのフィンランド建築を代表するのはアルヴァー・アールト(1898-1976)であるが、世界に衝撃をあたえたのはパイミオのサナトリウムである。1933年の竣工なので、先生がちょうど大学生のころ、ここでは平面の自由な形から多彩な色、衛生器具、家具、照明などあらゆるものが独創的に考えられており、世界の建築に大きく寄与したと評価されている。アールトはその後もつぎつぎに飛躍をつづけ、戦後も世界の建築界を舞台に活躍した。

トゥルクの墓地のチャペル
トゥルクの墓地のチャペル

 アールトとともに先生が注目したのは、エーリック・ブリッグマンである。「ブリッグマンはアールトのように新しい試み、新しいアイディアに満ちあふれるといった作風ではなく、もっと謙虚で、アールトのように飛躍していません。」ブリッグマンは作品もフィンランド国内、しかもトゥルク近郊に限られていた。

 「ブリッグマンの作品の特徴として新鮮さ、清潔さ、さらに中庸、謙虚さ、デリカシィ。そんなものを数えたいと思います」

 そんなブリッグマンの作品で先生にとって印象的だったのは、戦争の直前1939年に1等当選案として図面が発表され、その後忘れられていた「トゥルクの墓地のチャペル」である。戦中の資材不足のなか、レリーフの彫刻家を戦死で失うなど苦難の末、戦後完成したこの建築は「フィンランドに又一つの珠玉を加えたものと言えましょう」と書く。*5

 先生は長らく北欧の建築に親しんできたので、北欧建築の紹介者として雑誌に執筆する機会が多かった。

 しかし、この世代の不幸は、次第に時代が閉塞し、それまで帝国大学を卒業すると海外留学する者が多かったのに、望んでも行けない状態になってしまったことである。先生が自分の目で北欧の建築を確認できたのは1965年、すでに54歳になっていた。海外渡航が少しずつ自由化され、1960 年には森田先生より20 歳も若い武藤章がアールトの事務所に入り、現地の生き生きした様子を報告する。武藤の『アルヴァ・アアルト』(武藤章、鹿島出版会1969)について「非常に行き届いた解説書。私は興味深く一日で読通してしまいました」と書いている。*6  こうして森田先生の出番は少なくなっていったが、先生の北欧建築紹介は誰よりも一貫して量も多かった。

 

北欧建築を楽しむ

 先生の海外旅行は必ず奥さまの洋子さんと一緒だった。北欧の3 回をふくめ、たびたび各国を旅行したが、それは視察・研究というより建築を楽しむ旅行であった。とくに北欧4カ国は長年雑誌を通して親しんできた建築を現地で確認し、感動を新たにしたものだった。

 初めての北欧の旅で印象に残ったのは、ストックホルム市庁舎(エストベリィ)、イェーテボリの裁判所(増築)(アスプルンド)、グルントヴィ教会(クリント)、オーフス市庁舎(ヤコブセン)である。

 

オーフスの市庁舎
オーフスの市庁舎

 中でもオーフス市庁舎での感激は大きく、「市庁舎は全く愛惜おくあたわざる名作」とし「ただあまりにデリケートで、色白でデリケートな美人に接したようで、物を言いかけても悪いような、さわれば壊れそうな感じがする」「いつまでも見ていたい気がする一方であらゆるデテールの原寸でもとらねば」というほどの感激にひたった。*7

 1965年には建築家の仲間6人でヘルシンキ郊外のタピオラを訪ねオタニエミ工科大学のチャペルを見学している。ここは祭壇が針葉樹の森に向かって大きな透明ガラスになっており、戸外に鉄製の十字架が立っている。「自然に対して宗教的な心情をもつ日本人として深い共感を感じる…個性を突き抜けて必然にまで到達した一典型と思われる」と書いている。*8

 先生の旅行の特徴は、決してガイドや紹介者に頼らず、自分で調べて、自分の足で歩くことである。道に迷いながら、庶民の暮らしに目を配り、市民の視線から街や建築を理解しようとしていたことである。親切に案内してもらえることもあれば、見学に失敗することもあった。

 

 

久我山の自宅
久我山の自宅

住宅設計にこだわる

 先生は30 年間にわたって法政大学で建築を教えていたが、ほぼ同時並行して設計事務所を経営し、ゼミの卒業生を受け入れて主として住宅の設計を進めていた。繁忙期には2人から4 人が所員として働いていた。このため東京・久我山の自宅の庭に小さな小屋を建ててそこを事務所にしていた。ここで設計して完成した住宅は532戸、最盛期には1年に43戸の住宅を設計している。その成果は婦人之友社から『住まいの手引』(1964)として発行された。*9

 そこには施主との丁寧な手紙のやりとりなどが紹介されており、住み手に寄り添った住まい造りや平面を分析する研究者の姿勢が見て取れる。そこに詳しく紹介されている住宅は岡山から婦人之友社に紹介を依頼された手紙が先生に回送されて始まった仕事であった。詳細な手紙のやり取りで出来た住宅は木造30坪、総工費289万円であった。

 

 

庭先の設計事務所
庭先の設計事務所

 先生の事務所の最盛期は1960 年代の10年間であったが、それは日本の近代建築の最盛期でもあった。この時代建築家たちは大規模な公共建築で腕を競っていたが、先生は普通の生活者のローコスト住宅を丁寧に設計していたのである。

 設計は必ず先生の描いたスケッチから始まったというが、先生は必ずシベリウスの『フィンランディア』が流れる部屋でスケッチを練った。

 中学生時代に母親が購読していた『婦人之友』からフランク・ロイド・ライトの建築を好きになったという逸話はすでに書いたが、住宅の設計を始めてから先生と世の主婦を結びつける媒体として『婦人之友』が再び登場したわけだ。ちなみに洋子夫人は自由学園の出身だった。

 

 先生の設計した住宅はこの『婦人之友』の読者と自由学園の卒業生たちからの依頼であり、全て洋子夫人のつてであった。不思議なことに父親の茂吉から仕事を依頼されたことはなかった。大日本セルロイドか富士フイルムの仕事を引き受けていれば、建築家として名を残す可能性もあったはずだが、先生は決してそこに手を出すことはなかった。そこには公私を峻別する父親譲りの潔癖な倫理観が見える。

日産文化会館
日産文化会館

 とはいっても、住宅以外に興味がなかったわけではない。例外的に大きな建築を二つ設計している。法政大学第一中・高等学校と日産自動車の労働組合の更生施設・日産文化会館である。また、京都国際会議場のコンペにも参加している。

 

夢みる人

 森田先生はしばしば現実離れした夢想家と見られた。例えば、『建築雑誌』(1956.4)で「建築ジャーナリズムの動きをたどる」座談会に出席し、多くの建築雑誌が乱立し同じような建築を紹介しているのはムダなので、読者のためにも1 誌に統合した方が良いと力説して各雑誌の編集長たちから顰蹙を買ったことがある。しかし、思い出してみると父親の茂吉は乱立して共倒れになりそうなセルロイド企業8 社を統合して大日本セルロイド社を作り社長として大発展させている。

 この父親の事業家魂が時折閃くのは仕方がない。ただ残念なことに森田先生には父親のような実行力が欠如していたために夢想家と見られてしまった。それを補っていたのが洋子夫人だった。彼女は常に後から先生を支えていたが、その積極果敢な決断・行動力は見事であった。

 そんな行動力がもっとも発揮されたのが、先生の没後であった。夫人は久我山の自宅、土地を処分して単身小荒間の別荘に移住し、さらに八ヶ岳の麓に土地を求めて、宿泊・研修施設を建設して日本エスペラント協会に寄付してしまった。

 エスペラントは世界平和のためには人類共通の言語が必要と考えたザメンホフが提唱した運動だったが、先生ご夫妻はこれに共鳴して長年これを学び海外に友人を作り、世界エスペラント大会にも出席していた。洋子夫人は先生の遺志をこんな形で実行に移したのである。この施設は今も日本エスペラント協会の国際交流活動の拠点としてよく利用されている。

 森田茂介という人は、決して権威を誇示せず、何をするにも一市民として行動する人だった。しかし、森田茂介の市民感覚は、決して生易しいものではなかった。

 戦前の軍国主義を忌み嫌い、戦後やっと実現した民主主義を心から信じ、開かれた平等な市民社会を求める強い信念に裏付けられたものだったからである。(おがわ いたる 法政大学建築学科を1966 年卒業 建築書編集者、南風舎顧問)

 

1: 森田茂雄『非庵森田茂吉』、私家版1964

2: 森田茂介『建築の楽しみ』、私家版1985、p.76

3:「 北欧の建築」『建築雑誌』1949.3 p.13

4: 森田茂介『続・建築の楽しみ』、私家版1989p.64

5:「 北欧の建築」『北欧文化協会創立10周年記念出版』1959、『建築の楽しみ』に再録p.100、p.104

6 :『 建築家』日本建築家協会1969春、『建築の楽しみ』 に 再録 P.111

7: 森田茂介、前掲『建築の楽しみ』 p.9

8:「 北欧の建築」『北欧』1974.12北欧文化協会創立25周年記念号、『建築の楽しみ』に再録 p.113

9:『 住まいの手引』婦人之友社1964年写真:特記以外は『建築の楽しみ』『続・建築の楽しみ』(森田茂介著、私家版)より転載

 

森田茂介の主な北欧建築紹介記事

「北欧の建築」『建築雑誌』1949.3

「スウェーデンの現代建築1940−1950」『国際建築』1951.9

「デンマークの建築家達」『建築界』1954.11

「Alvar AaltoとErik Bryggman」北欧文化協会創立10周年記念出版1959

「北欧建築空想紀行」『国際建築』1963.10

「Paimioのサナトリウム」『宇宙樹』1965.9

「Alvar Aalto」『建築家』日本建築家協会1969春

「北欧の建築」『北欧』第8号 北欧文化協会創立25周年記念号1974.12

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。