設計:ジョサイア・コンドル
竣工:1896(明治29)年
東京都台東区池之端一丁目
三代財閥の一つ、三菱財閥の3代目社長、岩崎久彌の自邸として建てられた。
久彌は、創業者岩崎彌太郎の長男として1865年(慶応元年)に生まれた。
久彌が19歳の時に父が死亡したが、翌年ペンシルヴァニア大学に留学のため渡米。1891(明治24)年に帰国。1893年三菱合資会社を発足、社長に就任。
岩崎弥太郎は土佐藩士だったが、海運業で成功し、新政府と手を組んで、さらに鉄道、鉱山業、造船業などと拡大した。
2代目社長岩崎弥之助は弥太郎の弟、美術品の収集、保存に尽力した。
3代目社長久彌は弥太郎の長男。東京帝国大学、ケンブリッジ大学卒、銀行、鉱山、重工業さらに、丸の内オフィス街に手を伸ばし、三菱財閥を完成した。
4代目社長小彌太は弥之助の弟、オックスフォード大学卒。終戦まで困難な時期に財閥の解体に立ち会った。
門を入ると、邸宅を目指して坂道が登ってゆく。馬車道と言われているので、昔は馬車でここを登って行ったのだろう。
正面は北向きなので、ここには陽があたらない。
塔の下に玄関があるが、全体の右寄りにあり、左側の大きな塊が、階段ホールや主要な諸室に当てられている。
シンメトリーを大きく崩した、バランス感覚が興味深い。
この邸宅を木造にしたのは久彌の希望だった。塔は、四角形を絞った珍しい形。木造で塔を作るという難しいテーマにこたえたもの。
東側は大きなサンルームがあり、開口部の多い、軽快なデザインになっている。サンルームはのちの増築である。
南側は、1階、2階とも全面的にベランダになっており、列柱が美しい。
これだけ見事な列柱のベランダは珍しい。
広い庭園にふさわしい開放的なデザインになっている。
左右の両端の柱が2本ペアになって全体を引き締めている。
2階のベランダには手すりと美しい柵があるが、1階には手すりがなく、中央に庭に降りる階段がある。
玄関ホール。
玄関ホールから振り返ると、玄関ドアの上のステンドグラスが目にとびこんくる。円形が連なった、単純だが、美しい図柄だ。
天井が美しい。
骨太な木造の天井が続いている。
2本セットになった柱が二組。折れ曲がった階段。階段ホールはこの建築の最大の見せ場になっている。
この住宅、特に洋館部分は、政財界の賓客を呼んでもてなすために作られたと考えられるが、そのためにこれらの部屋が使われた。
階段の手すり、その手すり子のリズム感。
木造の階段の手の込んだ細工がよく見て取れる。
階段まわりの彫刻も手が込んでいる。
階段室の窓ガラス。幾何学的な網目模様が見事。
ガラスが嵌め込まれたステンドグラスのような編み目模様を通して見える木々の姿が格別だ。
1階の大食堂。
力強い木造の天井。
赤い壁紙。
白い石の暖炉。
華やかな食堂だったことが想像できる。
落ち着いた客室。
後日、増築されたサンルーム。
夫人室。
天井、コーナーの装飾など、イスラム調のデザインが目に付く。
1階のベランダには、英国ミントン社製の高級なタイルが敷き詰められている。
美しい色合い、複雑な紋様、目地のない密着した貼り方、欠損がなく、よく維持・保存されているのに感心する。
2階のベランダには手すりがある。
手すりには手の込んだ鋳物が使われ、ここから見る西洋式の芝生の庭園はことのほか美しい。
2階のベランダの床は木造。この住宅の中で最も快適な場所だったかもしれない。
和館へ向かう船底天井と畳敷きの廊下。
かつては、大工棟梁大河喜十郎の手によって作られた20棟に及ぶ大邸宅だったが、今はわずかに大広間、次の間、三の間だけが残されている。
本邸に隣接して建てられた、撞球(ビリヤード)室。こちらは素朴な山小屋風。
本邸とは地下道で繋がっている。
前面のロッジア。庭に向かって快適な居場所になっていたに違いない。
木造の構造に楽しげな遊び心が加味されている。
1945年、敗戦と共に三井財閥は解体させられ、三菱本社は解散した。
それと共に、この住宅は、米国CIAキャノン機関により接収され、岩崎家は、和館の片隅に追いやられた。
米軍から返還後、財産税として国に物納され、国有財産となったが、紆余曲折ののち最高裁の書記官研修所となり、和館の大部分が解体され、鉄筋コンクリート5階建てのビルとなった。晩年の久彌は、千葉県富里の末廣牧場に転居し、1955年死去。90歳だった。久彌はこの池之端の「岩崎邸」に49年間暮らしたことになる。
今は、東京都の所有となり、旧岩崎邸庭園として一般公開されている。
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