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神戸商船三井ビル

神戸商船三井ビル 設計:渡辺節 竣工:1922(大正11)年

兵庫県神戸市中央区海岸通5

 

日本の近代海運業は乱立と統合の繰り返しだった。その中から抜きん出たのが、東の日本郵船と西の大阪商船(現・商船三井)。

この2社が世界に飛躍する契機となったのが第一次世界大戦で、大阪商船はこの急拡大の時期に、次々と本社、支店ビルを建設している。

その手始めがこのビル(旧大阪商船神戸支店)だった。

横浜に次いで開港した西の玄関口・神戸港に臨む海岸通に立ち、港を目指す船からも一際映えた、白く輝くシンボルだった。

設計したのは、38歳、新進気鋭の建築家、渡辺節。このビルの成功により、本社大阪ビル(ダイビル)をはじめ大阪商船のビルを次々に手がけることになる。

渡辺は、明治17(1884)年、東京麹町に生まれた。

東京帝国大学の建築学科を卒業すると、韓国政府度支部(たくしぶ)に就職。

韓国で4年ほど仕事をした後、大阪駅の設計のため、鉄道院西部鉄道管理局に呼ばれたが、ちょうどその時、明治天皇が崩御し、大正天皇の即位の大典のため、京都駅の建設という重要な仕事を命じられる。

20歳代の渡辺に、設計は一切を任せる。しかし、条件は、木造、予算30万円、工期1年という厳しいものだった。

それに対し、渡辺がまとめた案は、中央の烏丸通りに面した入り口を一般客の出入り口として、その横に貴賓室玄関を設けるというものだった。

同じ時期に辰野金吾が設計していた東京駅は、中央に天皇のための出入口、左右に市民の出口と入口を作るというものだったので、渡辺の案は本社からの強い拒否反応にあった。

しかし、渡辺は、天皇は年に何度使うかわからないが、市民は毎日使うのだからと一歩も譲らず、1年しかない建設期間のうち3か月もかけて説得し、ついに主張を貫いた。

京都駅ができると鉄道院を退職し、大阪に設計事務所を立ち上げた。その最初に舞い込んできた本格的な仕事がこのビルだった。

渡辺はこの仕事にため、欧米に視察旅行に出る。特にアメリカの合理的な建設技術に学ぶところが多く、その設計、技術、材料を貪欲に取り入れ、鉄骨、テラコッタ、錠前、蝶番に至るまで買い付け、商船の船で運んだ。

こうして渡辺は、合理性、経済性、時間短縮など大阪商船の厳しい要求を満たしながら、格調高いビルにまとめ上げた。

渡辺は、大正9(1920)年と、11(1922)年の2回、欧米、主としてアメリカの建築界を視察して最新の技術を積極的に取り入れている。

渡辺が大阪で成功したのは、安く、早く、それでいて頑丈かつ美しさを追い求めたからだろう。

仕事には厳しかったが、仕事はできた。金にも詳しい。説得力がある。その上、長身で美男子、風采がよく、人間的魅力を備え、話術に長けて、人を惹きつけたという。クライアントに一歩も引けを取らない、建築家として、渡辺の右に出る人はいないと言われた。

事務所を始めるにあたって、所員を求めて、早稲田大学を訪ねた。

そこで目についた学生が、村野藤吾だった。

村野はすでに大林組に就職が決まっていたが、渡辺は大林組を説得して、村野を事務所に連れ帰った。

村野は学生時代、すでに様式主義を嫌って、近代建築に関心が向いていたが、渡辺の事務所では、様式建築の装飾、窓周りの細部など徹底的に鍛えられた。2、3年下働きをして次第にその能力を認められると、その後は渡辺事務所の筆頭建築家つまり渡辺の右腕となっていった。

間も無く渡辺から命じられて、アメリカへ主張する(1921年)。表向きの要件は、銀行の金庫の検討だったが、渡辺が指示したのは、

「太平洋は外国船で行くこと、バンクーバーに着いたら、ホテル・バンクーバーに泊まって、最初に散髪し、散髪をしながら靴を磨かせ、マッサージをすること。終わったらマニキュアをしてもらう。もっとも、マニキュアをしながら女に冗談を言ったりすることは、君にはちょっとできまいから、それはニューヨークに着いて、言葉ができるようになってからぜひやってみたまえ。

次はカナダからシカゴに出る途中、バンフというところに下車して、一流の温泉ホテルに泊まること。シカゴの宿はブラックストーン。夜はモリソンホテルの地下でアイスショーを見ながら食事をすること。」などだった。

仕事の余暇はまるで遊侠三昧のように見えるが、実は村野にとっては重労働にも等しい苦役だった。しかし、この体験は村野の心の奥に染み込み、やがて村野の血肉となって、後年の村野の建築家としての活動に大きな力となった。

村野は渡辺の事務所にその最盛期に13年間在籍し、独立したが、渡辺から学んだことは、村野の代表作、日生劇場をはじめとする多くの作品を通して現代に生きている。

渡辺は、関西建築界の重鎮として活躍し、戦後は大阪府建築士会会長など要職を務め、82歳で静かに世を去った。

ビルは竣工から100年たち、今もオフィスビルとして現役だ。

若い日に、優れた師に出会って、学んだ建築家は幸せだ。

前川國男、坂倉準三、吉阪隆正は、ル・コルビュジエに学んだ。

レーモンドはライトに学んだ。

磯崎新、槇文彦、谷口吉生は丹下健三から学んだ。

 

レーモンドは、ライトの影響から脱するために苦労した。

磯崎新も、丹下の影響から抜け出すために大変な努力を強いられた。

 

 

 

村野の場合はその影響を受け入れながら、次第に独自のスタイルを確立していった。これは非常に幸運なケースである。

 

時代の変革期に生きた村野は、二つの時代に生きるために大変な苦労をしたが、それが独特のスタイルとなって、非常に豊かな建築を次々に生み出す原動力になった。

その最初の経験がどんなものであったか、この建築がよく教えてくれる。

そんな目で見ると、この建築がさらに興味深いものに見える。

今なお、堂々たる風格を持ったビルだ。

荒々しい、石積みのこんな壁面が街路を豊かにしてくれている。

これがレストランなら、誰でも入って見たくなるに違いない。

 

クレディセゾン会員誌『てんとう虫』2023年2月号掲載

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。