丸の内には、その場所柄、単なるオフィスビルとは異なる、企業や団体、公共施設の顔となる格調の高い建築もある。
しかし、それらは、いろいろな運命をたどった。
大切に保存されたものもあるが、取り壊されたものもあり、部分的に保存されたものもある。そこには、企業の建築に対する認識の相違がはっきりと現れている。
代表的な建築は以下の通りである。
•三菱1号館(設計:コンドル)・・・・・・・・ 1894(明治47)年
•東京駅(設計:辰野金吾)・・・・・・・・・・1914(大正3)年
•銀行集会所(設計:横河工務所)・・・・・・・1916(大正5)年
•日本工業倶楽部(設計:横河工務所)・・・・・1920(大正9)年
•三菱銀行本店(設計:三菱地所・桜井小太郎)・1922(大正11)年
•東京中央郵便局(設計:吉田鉄郎)・・・・・・1931(昭和6)年
•農林中央金庫(設計:渡辺仁)・・・・・・・・1933(昭和8)年
•明治生命館(設計:岡田信一郎)・・・・・・・1934(昭和9)年
•第一生命館(設計:渡辺仁)・・・・・・・・・1938(昭和13)年
設計:ジョサイア・コンドル
1894(明治27)年 竣工
1968(昭和43)年 解体
2010(平成22)年 再建
一旦は解体したものの、再度同じものを建設した。
三菱が丸の内を入手して直ちに建設を開始したのがこの三菱1号館だった。
コンドルの設計による本格的な西洋式の建築で、丸の内を象徴する名建築だった。丸の内ではこれに続いて赤レンガのオフィスビルが次々に建設されて行った。
しかし、70年も経つとさすがに時代の要求に応えることはできなくなって行った。1960年代は東京オリンピックを契機に日本中がスクラップ・アンド・ビルドの時代となり、赤レンガのビルは次々に解体され、三菱1号館は丸の内を象徴する最後の建築だったため各方面から保存の要望が出たが、全て無視し、解体が強行された。その後には三菱の代表的な会社三菱商事のビルが建設された。
しかし、それから40年も経つと、文化財的な建築の保存を助けるため、文化財を保存した企業にボーナスを与える制度が整備された。三菱はこの1区画全体を一つの建築として、後ろのビルに大幅な容積率の増加を条件に、1号館を再建した。
三菱1号館は背後のパークビルと一体として、再建された。
1号館の背後には巨大なビルができ、その間に小さな広場ができた。
広場ができたのは良かったのだが、丸の内の巨大な都市としてはなんともチマチマした、貧しい空間になってしまったのは残念。
巨大な都市、巨大なビルにふさわしいのびのびとした広場が欲しかったと思うのだが、どうでしょうか。
再建された1号館は実に忠実に当初の建築を再現している。レプリカ保存と揶揄されているが、どこを見ても再建とは思えない見事なものだ。三菱地所設計の生真面目な努力が十分発揮されている。
当初は三菱銀行の窓口だった1階角の部屋はカフェとなって自由に利用できるので、当初の内装も十分味わうことができる。
復元にかけた真摯な努力は理解できる。
設計:辰野金吾
1914(大正3)年 竣工
1945(昭和20)年 空襲により3階部分を焼失
2012(平成24)年 復元・保存竣工
昭和20年空襲により3階部分を焼失したため、2階に仮の屋根を架けて、この形が多くの人の頭には焼き付いている。
しかし、保存が決まった時、一気に建設当初の姿に復元する案が浮上し、大金を投じて復元保存となった。
そのために、空中権を周りのビルに売るという奥の手を繰り出して、建設費を捻出した。
復元した姿で最も違いが見えるのは、3階部分を作ったこと、北口と南口のドームを復元したことである。
見えない部分では、耐震性能を強化するため、今までは松の杭によって支えられていたものをコンクリートの杭と入れ替え、さらに全体を浮かせて免震構造としたことである。
復元された北口のドーム。建設当初の姿に復元された。
戦災で失われたドームの代わりに仮のドームが作られた。
それまでは、金属製の仮のドームをやめて、資料に基づいて建設当時の姿に非常に正確に復元された。
ドームの下の舗装は上から見下ろすと、なかなか味のあるデザインになっている。この位置から見る人は少ないが、なかなか興味深い舗装になっている。この舗装が建設時のものかリフォーム時の新しいデザインなのか解らない。
設計:横河工務所(担当:松井貴太郎)
1916(大正5)年 竣工
1993(平成5)年 建替え(壁面保存)
2020(令和2)年 建替え(2階バルコニー保存)
東京駅とほとんど同じくらいの時期にできたが、デザインはこの方が一枚上手だった。建築から土木までいろんな仕事が入ってくる横河工務所の中で飛び抜けて腕の立つ建築家が松井貴太郎だった。
1993年建て替えに際して、多くの要望に応えて、外壁がほぼ保存された。内部は新しい建築になったが、外壁はかなり完全に保存された。当初は、「壁面保存」などと揶揄されたが、非常に手の込んだ、見るべきところの多い、美しい建築がよく観察できた。
土地は三菱地所、設計は三菱地所設計。
それから27年後、さらに大規模な建替えとなり、今度は、バルコニーの手すりだけが残された。
こんどのビルは、銀行会館、東京銀行協会、みずほ銀行前本店ビル、を解体して、巨大なビルみずほ丸の内タワー」「銀行会館」の高層ビルと低層の「丸の内テラス」としたもの。
「みずほ銀行前本店ビル」とは聞きなれない名称だが、実は1974年村野藤吾の設計によってできた「日本興業銀行本店」という名建築である。それなら思い出す人は多いはずだ。
この建て替えにより、前回保存された東京銀行会館の外壁はすっかり姿を消していた。外壁だけとはいえ、あれだけ見事な建築が一瞬にして廃棄されるとは、恐ろしいことだ。
私には壁面保存されていた「東京銀行集会所」は、第1級の芸術作品だったと思えるのだが。
今度の設計も三菱地所設計と他2社
記憶を失った街は寒々としているように見えるのだが。
設計:横河工務所(松井貴太郎)
1920(大正9)年 竣工
日本工業倶楽部は、日本を代表する実業家329人により大正6年に結成された。親睦のための団体。
2003(平成15)年 この建築の前三分の一を保存の上、大規模建築として建替えることに。後ろの高層ビルは三菱信託銀行本店。
設計は三菱地所。
全体は、セセッションという当時最新の様式を採用していたが、玄関廻りにはギリシャ神殿の様式、その中でも最も権威のあるドーリス様式を採用し、日本の工業を代表する企業の権威を示そうとしている。
軒先には、日本の工業を象徴するように、ハンマーを持った男と、糸巻きを持った女の彫刻を載せている。男は炭鉱を、女は紡績を示していた。絹は日本の近代化を支える基幹産業だった。
来客を2階のホールへ導く堂々とした階段。
見事なホール。天井、シャンデリア、湾曲した窓枠。
二度と作れない豪華なホールだ。
三菱銀行本店
設計:三菱地所(担当:桜井小太郎)
1922(大正11)年竣工
三菱銀行のみならず、三菱グループを代表する堂々たる建築であった。
これを設計するための建築家として桜井小太郎は採用された。
ギリシャの神殿建築を手本とした典型的な古典主義建築。
ギリシャ神殿の柱頭のデザインには、ドーリス式、イオニア式、コリント式、と3種類の様式があるが、これは、最も優美なイオニア式である。
大きな営業室。実に見事なものだ。圧倒的な大きさで三菱グループの力を見せつけているようだ。
しかし、三菱銀行は、超高層ビルに建て替えるため、古いビルを年壊してしまう。
ギリシャ神殿風の銀行建築は50年ほどの命だった。
超高層ビルの前庭には植え込みの中にあのイオニア式の柱頭だけが残されていた。
あの誇り高い柱頭もここでは何やら寂しそうに見える。
あの神殿風の正面、あの巨大な営業室が残されていたら、それこそ、三菱の顔として世界に誇ることのできるシンボルになったと思えるのだが。
東京中央郵便局 設計:逓信省営繕課(担当:吉田鉄郎)
1931(昭和6)年竣工
この時代、最も近代的な建築として注目された。特に柱と梁以外は大きなガラス窓を開け、明るく、幾何学的な近代建築と思われた。しかし、間も無く頭角を表した丹下健三はこれを「衛生陶器」と揶揄した。
JPタワー、KITTE
2012(平成24)年竣工
設計:三菱地所設計
2012年に竣工したJPタワーは、高さ200メートル、38階建ての巨大な超高層ビルだった。東京駅から空中権を入手して高層の割増を獲得している。低層部は中央郵便局の外装を生かして商業施設KITTEとしている。
敷地も建築も三菱のものではないのだが、なぜか設計は三菱地所設計となっている。三菱の力が丸の内の全体に及んでいることがわかる。
しかし、このビル、市民にとっては、なかなか見ごたえのある、楽しめる建築なのである。ぜひ、踏み込んでみて欲しい。
低層部は中央郵便局の外装がかなり忠実に再現された。
実に美しいプロポーションだ。
今ではもう見ることのない、時計を中心としたデザイン。
時計のために正面がビシッと決まってますね。
こういうのもなかなか良いものですね。
実に丁寧なタイルのデザイン。
角度のついた見事なタイル割り。
軒先の収まりの美しさ!
この微妙な角度のタイルを柔らかく貼る技術。
さりげないところだが、ものすごく愛おしいタイルさばき。
細かいところも手を抜きません。
見事です。
KITTEは大きな吹抜の空間を囲んで、商業施設が軒を連ねている。この部分の設計には隈研吾が参加している。
左側の柱・梁は中央郵便局のものが生かされている。
右側はガラスの手すりが付いた廊下が巡っている。
中は全てショップ。
三角形の大きな吹き抜けの二面がガラスの手すり。
天井は全面トップライト、太陽光発電にもなっているのか。
中央郵便局の残された部分。
中はショップ。
ショップの前の廊下。中央郵便局の柱が残された部分。
ショップの窓からは、目の前に東京駅が見える。
元の局長室の窓からは、目の前に東京駅のドームが迫って見える。
なかなかの絶景である。
中央郵便局の窓口はほぼ元のまま残され、郵便業務を行っている。
特徴のある柱は昔のままだ。
ここは多くの人にとって思い出深いところかもしれない。
建築家にとっては、コンペの提出期限の深夜、当日消印が絶対に必要だったので、
多くのライバルが深夜ここで鉢合わせすることになった。
ほろ苦い思い出の詰まった景色ではないだろうか。
撤去された柱の跡が残されている。
特徴のある8角形の柱だった。
屋上も開放されている。
ここから見る東京駅と駅前広場はまた見事ですね。
kitteの中には、不思議な博物館が入っている。
東京大学の博物館「インターメディアテク」である。
動物の剥製、骨格標本など、ちょっとこの場所にそぐわない展示がある。
しかし、こんな場所だからこそ出す意味がある、と東京大学博物館は考えた。
ぜひ、一度は覗いてみて欲しい。必ず意外な発見があります。
ビジネスの街丸の内で唯一アカデミックな香りのする場所だ。
設計:岡田信一郎
竣工:1934(昭和9年)
明治維新の後、日本の建築界が欧米の様式建築を学び始めて、必死になって到達した最高の傑作がこれだ。
お濠を前にして、堂々と建つ姿は実に見事である。
全体はギリシャ神殿を基にした古典主義建築だが、よく見ると、窓も非常に多く、近代建築としても十分、機能していることが想像できる。
第二次世界大戦が終わった時、アメリカ極東空軍司令部として接収され、10年間ほど対日理事会の会場などとして使用されました。
1997年、昭和の建築物として初めて重要文化財に指定されました。
2001年から改修工事が始まり、三菱地所が所有していた隣接地に30階建ての超高層ビルを建設し、一体利用することで、完全保存が実現した。
1階道路に面した接道部分は、特に手を掛けて丁寧にデザインされており、日本とは思えない、優れた街並みを作り出している。
窓に嵌っているグリルの完成度も高く、素晴らしい作品になっており、思わず見とれてしまう。
脇の入り口。さりげないデザインだが、ビシッと決まっている。
最大の見せ場はコリント式の柱とその柱頭である。
コリント式の柱頭は、ドーリス式、イオニア式、コリント式とある、ギリシャ神殿の建築様式の中でも、最も複雑、華麗なデザインである。
丸の内の建築の中では、工業倶楽部のドーリス式、三菱銀行本店のイオニア式、とともにここのコリント式の柱頭は見とれてしまう美しさだ。
岡田信一郎は、このほか、関東大震災で崩壊したニコライ堂を以前より優美な姿に再建したり、豪華な唐破風を持ったいまの歌舞伎座を設計したりしている。
岡田は、最高に熟達した腕の立つ建築家であったが、同時に博覧強記の人であった。しかし、身体が弱く、自身は欧米へ行ったことがないにも関わらず、これからヨーロッパへゆく若者に細かく街の案内をするほどだった。
そのスタイル、立ち居振る舞いも美しく、当時は街で一番のイケメンと言われていた。
当時、赤坂の芸者で一番人気のあった萬龍は、いまのテレビタレントのようなものだが、美人コンテストで1番、三越のポスターになるほどの人気者だったが、これが事情があって、岡田信一郎と結婚することになった。
人力車で街を行くと、美人、美男のカップルは大変な人気だったという。
この建築の中に2022年10月静嘉堂文庫美術館がオープンする。
静嘉堂文庫とは、三菱財閥を仕切った2代目岩崎弥之助、4代目岩崎小弥太が収集した東洋の古書、古美術のコレクションだが、現在は世田谷区にあり、その内、美術品のみが、明治生命館へ移動するもの。この中には世界に3点しかない曜変天目茶碗も含まれており、これが公開されれば、大きな話題になることは間違いない。
第一生命館
設計:松本伊作・渡辺仁
竣工:1938(昭和13)年
明治生命館とは4年しか違わないのに、まるで時代が違うほど、その表情は異なる。世の中は、すでに、様式建築を脱してモダニズムの時代に突入している。
第一生命館は、大枠は明治生命館とよく似ているのに、ディテールは一切なく、巨大な石材が大胆に積み上げられたものになっている。
いわば、近代的とも言える。
この時代、すでに戦争の足音が近づいており、贅沢は許されない、しかし、石材は戦争に必要ないので、ふんだん使うことができた。
そこで、大きな石材が贅沢に使われている。
明治生命館がものすごく装飾的だったのに反して、ここは全く装飾のない大きな石材を組み合わせただけのものだ。
明治生命館の装飾的な柱と比較して欲しい。
これを設計した渡辺仁は、銀座和光を設計した、非常に装飾的な建築も上手にこなす建築家なのだから、時代の変化を実によく表しているというべきでしょう。
このビルはこの玄関ホールを公開しているので、この大きな石のホールはぜひ味わって欲しい。
第二次世界大戦が終わって、米軍が進駐してくると、マッカーサーは都内の主要な焼け残りのビルを見て回り、このビルを一目で気に入り、自分の総司令官室として占拠した。
マッカーサー司令官室は今もその当時のまま保存されている。
1995年、同一敷地内にあった「農林中央金庫有楽町支店」とともに一体化して保存することになり、当初の施工を担当した清水建設の手で設計、施工が行われることになった。
清水建設では、経験の豊かなアメリカの設計事務所、ケビン・ローチに協力を求め、ローチは最初に現場を見て了承、以後、6年半で30回に及ぶ行き来を重ねて細部まで双方が納得するまで打ち合わせを重ねた。
完成したビルを見にきたローチは、このホールなら「アイーダ」を公演できそうだ、と喜んだという。
保存した低層部と高層部のデザインがよくマッチしているのは画期的。
さらに、第一生命館と農林中央金庫というかなり異なるデザインをともに生かしながら一体化するという離れ業を成し遂げている。
しかも、第一生命と農林中央金庫という別の会社がそれぞれ、独立してしかも一つのビルを共有するという協力関係を見事に捌いたところも見事だ。
丸の内の保存・再生ビルの中の最高傑作に間違いない。
元の農林中央金庫のビル。右側と左側のファサードの柱の違いに注目してください。右は四角。左は丸。これをバラして、新たに作る一つのファサードに統一してしまった。見事な手腕である。
真ん中に6本の円柱、その左右に2本づつの角柱。
まるでニューヨークの街角のような風景。
見事なファサードですね。イオニア式の円柱に挟まれた三つの入り口。
なかなか見事な出来です。清水建設とケビン・ローチを褒めるしかない。
ここまで、丸の内の優れた建築の保存・再生のドラマを見てきた。
所有者の決断、設計者の途方もない努力、そして施工者たちの努力に敬服する。
丸の内は、日本のビルの保存・再生の博物館のようなところです。
ほんの一部保存、壁面保存、完全保存、再生保存等々、実に様々なケースがある。
この中で、最も優れた作品はどれかといえば、やはりDNタワー21(第一・農中ビル)をあげたい。大胆にしかもきめ細かくよくここまで頑張った。ぜひ、皆さんも見学してください。
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