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ヒアシンスハウス
ヒアシンスハウス 設計:立原道造 2004年竣工

立原道造(1914〜1939)は叙情的な詩人としてよく知られているが、24歳の若さで世を去っている。たくさんの詩を残し、多くの人に愛された。

 

 春の風は 窓のところに

 かへってきて

 贈り物のことを ささやいている

 おしゃべりな言葉で

 

 まつたく微笑が 少女の頬に

 ふかい波を 皮膚の内からおこさせて

 また 消してゆくようにー

 それは ためいきにも似て(「窓辺に凭りて」『立原道造詩集』岩波文庫)

ヒアシンスハウス

立原は詩人として多くの人に愛されたが、職業として目指したのは、建築家であった。しかも、東京帝国大学の建築科に入り、最優秀の賞を取っていた。

立原の1年下には、丹下健三、大江宏、浜口隆一という戦後大活躍する建築家たちがいたが、彼らにとって、立原は常にあこがれの的であった。

その立原が夢に見た自分のための別荘。それがこのヒアシンスハウスである。

ヒアシンスハウス

立原は身体が弱く、卒業後、石本建築事務所へ入ったが、翌年には結核のため亡くなってしまった。24歳であった。

つまり、建築家としての作品はないと言っていいだろう。

しかし、自分のための小さな小屋を持ちたいという気持ちは強く、何度もスケッチを繰り返し、友人にも図面を送り、そのスケッチは50枚にも達したという。

ヒアシンスハウス

彼の夢は没後60年にして、ついにかなった。強い想いは実を結ぶものである。

そのきっかけは、立原がその敷地として、埼玉県浦和の別所沼を想定していたこと。そして、没後60年目にさいたま市が政令指定都市になり、別所沼公園が埼玉県からさいたま市に移管されたことであった。

これを記念して、ヒアシンスハウスを作ろうという機運が高まり、全国から寄付を募って、ついに実現したものである。

ヒアシンスハウス

立原が残した簡単なスケッチを実現するためには、多くの建築家の協力があったことは言うまでもないが、現地を見て、実によくできているのに感心した。

立原がこだわった窓、コーナーに柱1本で支えられた解放感が気持ちいい。

立原が生まれ育ったのは、雑貨の製造業が密集する日本橋の近く。両親は木製の箱を作る工場を経営していた。雑然とした下町だった。

コーナーの処理も簡潔でなかなかよい。

立原は、そんな下町の雑然とした環境を離れて、信濃追分の爽やかな環境にあこがれていた。

雨戸に明けた明かり取りも立原の好みがよく出ている。

玄関の小さなステップ。

室内のデスクと椅子。立原はここに座って一日詩の構想を練っていたかったのだ。

奥に見えるのはベッド。椅子は立原のスケッチのとおりに再現されている。

立原のスケッチ。トイレはあるが、キッチンも浴室もない。従って、住宅とは言えない。小屋である。

そういえば、ル・コルビュジエが最晩年に愛用したカップマルタンの小屋もトイレだけで、キッチンも浴室もない小屋だった。

カップマルタンは大成功した大建築家の小屋だったが、ヒアシンスハウスは何の実績もない駆け出しの若い建築家の夢にすぎない。

にも関わらず、そこには実に多くの共通点があるのではないか。

ともに大都市の喧噪から逃げ出すための小さな小屋だった。

この窓辺には立原の夢が凝縮しているのではないだろうか。

天井いっぱいまで開いた窓。

立原の卒業設計は「浅間山麓に位する芸術家のコロニイの建築群」というものであった。このヒアシンスハウスはその中の一つのような印象もある。

片流れのシンプルな屋根。

立原の時代には、この別所沼のあたりに多くの芸術家が住んでおり、ちょっとした芸術家村を形成していた。

ヒアシンスハウスは水曜日と土曜日には公開されて、自由に見学することができる。絵葉書なども販売されている。

北側、この窓に向かって仕事机が作り付けられている。

別所沼公園はメタセコイアが多く、独特の風景を作っている。

小屋のよこに旗竿があるが、これも、立原がこだわったもので、旗のデザインも親しくしていた画家の深沢虹子に依頼していた。

 

立原道造が生きていたら、どんな建築家になったか。多くの人が考える謎である。ある人は丹下を上回る大建築家となって活躍したといい、またその詩的イメージに共感している人は、北欧のアールトのような建築家になったに違いないという。

 

実は、立原の1年上に森田茂介という人がいた。この人は晩年私家版の『建築の楽しみ』という本を残しているが、そこに、立原が北欧の建築に心酔して北欧の建築雑誌を購読していたことが書かれている。また、森田は石本事務所に立原を訪ねてその北欧の雑誌を見せてもらったことがあると書いている。

 

丹下健三たちが、ル・コルビュジエに心酔してル・コルビュジエをお手本にして日本の近代建築のながれを作っていったのに対して、立原は反コルビュジエ、親アールトの、優しい、ヒューマンな建築をめざしたのではないかと思われる。

ヒアシンスハウスはそんなことを考えさせてくれる夢のある建築である。

 

この記事は下記の本を参考にしました。

『立原道造の夢みた建築』種田元晴著、鹿島出版会

 

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コメント: 29
  • #1

    奥山和代 (水曜日, 20 2月 2019 11:55)

    私は詩の朗読が好きです。
    家で一人で声に出して読んでます、
    詩の朗読の会はないものかと検索しているうちにヒアシンスハウスを知りました。早速、立原道造さんの詩に触れてみたいと思いました。
    一度訪ねてみたいと思います。
    このお家で詩の朗読会など開かれたら最高ですね。

  • #2

    Daijiro・So (木曜日, 21 3月 2019 12:37)

    立原の時代は貧しい時代だった。
    私の家族も6畳一間に8人が寝ていた。
    小さくとも、狭くても、自分だけのマイルーム(個室)がほしかった。
    その当時、それは、夢の夢だった。
    そんなささやかな夢もかなえられずに24歳で去った立原に涙する。

    雨戸に開けた明り取りの十文字は、北欧の建築雑誌を購読していた立原が、ル・コルビュジエの教会のデザインのアイディアにヒントを得たのであろうか。安藤忠雄もこの教会の十文字からヒントを得たと述べていたがそれよりも半世紀も早くに彼は取り入れていたのであろうか?

  • #3

    エコ (木曜日, 21 3月 2019)

    道造、田舎歌の中の
    僕は風と 花と 雲と
    小鳥を歌っていれば
    たのしかった

    という 亡夫の 現代誌文書があるが 作者はどんな人なのか 知りかった。朝日新聞の天声人語で今朝みつけて 飛び上がりそうなほど、うれしかった。 ヒヤシンスハウを訪ねてみたい。
    1年前に 亡くなった夫は 鳥が好きだったので
    死後 見つかった書を額装して毎日、目にしている。喉のつかえが取れたみたいでほっとした。

  • #4

    山田和子 (木曜日, 21 3月 2019 17:22)

    私の、青春の詩集でした。道造は!風信荘に、たずねていきます!本郷にあった道造記念館は、なくなりましたが、新たに、出来た事、思いが実現したのですね。天声人語、取り上げくれて、ありがとう!

  • #5

    藤原静子 (木曜日, 21 3月 2019 21:42)

    若い頃、性格が激しかったからか彼の詩が分かりませんでしたが、堀辰雄の話に出てきたり太宰の話に出てきたり皆に憧れる人柄だったとか、気になって長く忘れたことがなく風信子荘私見に行きます。本も探して又、読んでみます。

  • #6

    本宮 寛子 (金曜日, 22 3月 2019 00:45)

    60年前に道造の詩に会い、その詩を通して語り合った、あの "夢はいつも帰っていった"の懐かしい夢みる心は、年を経ても今も私の中に輝いています。道造を愛した友人とともに今なひっそりとしかし鮮やかに、、ヒアシンスハウスを訪ねます。

  • #7

    躑躅 (土曜日, 23 3月 2019 16:59)

    <夢み見たものは・・・> 天声人語の書き出しに、50年前の詩がブームだったころの自分が蘇りました。その後 結婚 子どもの出生、その息子が東京大学建築学科へ進み、在学中に何度か東大を訪れました。弥生門を出た所にある記念館にも行きました。(グーグルで見ると老人ホームが建設されているようで、東京は変化が激しい所のようです。)谷中の多宝院墓地の奥に立原家の墓を見付けました。追分の油屋旅館に泊まったこともあります。
    そんなファンだけど、家族には内緒にしています。息子は、立原道造という先輩がいることを知らずに現代の生活を満喫しています。私は、そらんじている14行詩を、一人のときに密かに口ずさんでいます。70歳を越した今も、青春時代の気分が生きています。
    関西在住ですが、何時か埼玉の風信子荘を訪ねたいと考えています。

  • #8

    野の花 (月曜日, 08 4月 2019 00:42)

    はじめまして。

    先月の休日に、浦和に行く用事があったついでに、かねてから念願の風信子荘に行って来ました。

    中学生だった遥か昔に道造の詩に出会い、詩集を買って、何度も繰り返し読みました。高校生になってアルバイトで貯めたお金で信濃追分の油屋旅館にも泊まりました。

    50歳をとっくに過ぎましたが、今でも自宅の本棚には道造の詩集や評論本が大切にしまってあります。

    今回、ようやく風信子荘に行くことができて良かったと思います。また機会があれば訪ねてみたいです。



  • #9

    小川格 (月曜日, 08 4月 2019 06:12)

    2019年3月21日、朝日新聞の天声人語に取り上げられて以来、ヒアシンスハウスは大勢の方が訪れているようです。このブログにも多くの方々に訪れていただき、沢山の熱いメッセージをいただきました。
    24歳で亡くなった若い命が多くの人の胸の中に生き続けていることを改めて感じさせていただきました。
    ハシンスハウスは小さな別荘ですが、立原の熱い気持ちが宿っているようです。

  • #10

    のんちゃん (木曜日, 18 4月 2019 18:34)

    立原道造の詩、好きでした。50年も前のこと。淡い思い出が蘇りました。
    建築家を目指していたこと、知りませんでした。
    この歳になって空間デザインを学び始めましたが、私の夢もコロニイを作ること。思いを同じくする自立した仲間たちのコロニイ。
    シェアさせて頂いていいでしょうか?

  • #11

    石川尚志 (木曜日, 18 4月 2019 20:40)

    立原道造は中学生の時、国際語エスペラントを学びました。北欧建築への関心で付き合いのあった森田茂介もエスペランチストでした。かれは、晩年、八ヶ岳山麓の甲斐小泉に北欧風の建物を造り、日本エスペラント学会(今は協会)に寄贈しました。この建物は今でも、エスペランチストの研修や、保養に使われています。要件を満たせば一般の人の見学や、利用もできます。関心のある方は、協会のホームページで確認されては如何。

  • #12

    冨田桂治 (水曜日, 26 2月 2020 19:50)

    本日の埼玉新聞(2月26日)さいたま市版と言うのでしょか、女房が持ってきて読みました。その後、ITからこちらのページたどりつきました。私も、建築屋と言われていましたが、現役時代は公共工事の営業、建築史も分からず、がむしゃらに受注に励んでいました。(笑)建築は大好きですし、現役卒業後は、ゆとりから?色々な建築を見て回るようになりました。歴史から、表に出ない人いっぱいいますね。明日は、美術館設計の第一人者「柳澤孝彦」の作品を真鶴まで見に行く予定です。又、埼玉新聞掲載のヒアシンスハウスとして、前編のようですので、次回「立原道造」を楽しみにしたいと思います。

  • #13

    五月の風 (火曜日, 16 6月 2020 16:58)

    立原道造の詩。15.6歳の頃に出会いました。まさしく、五月の風の様な彼の言葉に透き通る想いを載せていた自分が懐かしくてたまりません。

    歳を経ても、心に染みる彼の言葉に感謝します。

  • #14

    Sayuri Matsuoka (金曜日, 04 12月 2020 01:30)

    ピアノと詩とライアーと、というイベントをしていまして、詩を読みながらピアノやライアーを即興で弾いたりしています。その関係で、詩を探したり、読んだりしますが、そんな時にこのページに出逢いました。いつか立原道造の詩に合わせて、ピアノやライアーを奏でてみたい、と思いました。ヒアシンスハウスも訪ねてその空気を感じて、心に留めて。

  • #15

    小山志保子 (日曜日, 23 5月 2021 08:56)

    年に数回帰っていた実家が貰い火で消失。せめて小屋でも建てたいと模索中、ヒヤシンスハウスを知りました。訪れて、夢の蕾が膨らみ始めました。立原道造は少女の頃から好きな詩人でした。
    詩人の心を伴奏に頂いて夢が実現できたら嬉しいです。

  • #16

    アン (火曜日, 07 6月 2022 00:42)

    いつか、一度散策してみたい。
    ただ、のんびりと。
    時間から解放されたい。

  • #17

    橋川直樹 (金曜日, 26 8月 2022 07:16)

    中学1年夏、父を亡くす。精神が荒野に放たれ、荒廃でなく潤いを得るべく、読書の森に入り、肥前鹿島から佐賀迄の通学車中は、いわば読書の森の中。工業学校建築科1年の時、立原道造を知る。
    道造の世界にのめり込み、ついに、我作一四行詩集を文化祭に提出した程です。
    55年前の出来事。道造のヒヤシンスハウスごとく、蛍がいる築105年生家を減築、住むべく現役で社会貢献している。

  • #18

    渡邉 厚 (日曜日, 28 8月 2022 19:30)

    これは見に行かなくては!

  • #19

    山口恵 (土曜日, 15 10月 2022 15:51)

    海が見える場所にヒヤシンスハウスに似た小さな家を建てて穏やかに暮らしてみたいです 贅沢な夢ですが願いはみんなに伝えたり紙に書いて貼ったりすると叶うと聞いたのでコメントしてみました

  • #20

    はな、 (日曜日, 28 1月 2024 10:35)

    いつか行こうと思っていたヒアシンスハウス。行かぬまに、今日まで来てしまいました。夕べ(美の巨人)で放送されて胸がいっぱいになりました。憧れはあこがれのままで終わりそうだった道造に会いに行きます

  • #21

    さとトシ (日曜日, 28 1月 2024 11:36)

    私も昨夜美の巨人見ました ヒヤシンスハウス素敵だな それ以上にプレゼンターの内田さんの涙が印象的 父親が建築士だったので家に雑誌や写真集など海外の建物を目にして来ましたが道造は知りませんでした さいたまに行く時には是非寄ります

  • #22

    ひぃ (日曜日, 28 1月 2024 13:56)

    美の巨人で立原道造をしりました。
    こんな素晴らしい方がいたなんて!どうして今まで知らずに過ごしてしまったのだろう…
    夫婦揃って前川國男が好きで、前川國男邸のレプリカを建て住んでいます。
    ヒヤシンスハウスに近々行ってみようと思います。
    私の仕事部屋に、ヒヤシンスハウスを建てたいなぁ

  • #23

    ぼちぼち (土曜日, 03 2月 2024 00:22)

    ヒアシンスハウスを知りました。小さなお家を建て住みたいという気持ちがずっとあり想い描いていたのはこれだ!と。立原さんの世界をもっと知りたい気持ちでいっぱいです。別所沼公園にいってみたいです。今、心が踊っています。

  • #24

    kimiko (日曜日, 04 2月 2024 11:08)

    ヒヤシンスハウスに夢をのせて・・・
    素晴らしい出逢いと喜んでおります。
    我が家の窓辺にもテーブルを置いて庭を楽しんだりゆっくり過ごすことに気付きました。
    立原道造さんに想いを繋いで・・・

  • #25

    佐衣 (日曜日, 04 2月 2024 14:36)

    立原道造さんを知り心が癒されました。アメリカの絵本作家のターシャさんも大好すきで、お二人に共通点を感じます。ぜひ一度ヒヤシンスハウス行ってみたいと思います。



    立原











  • #26

    春こまち (火曜日, 20 2月 2024 20:10)

    「新美の巨人たち」が好きで欠かさず見ています。その時はは立原道造、詩人で建築家か…とピンとこぬまま見進めていました。
    最後の方になって「夢見たものは」の詩を内田有紀さんが読んだのを聞いて(あっ)と思いました。
    歌い始めて30年近くになる女声合唱で、これは団でものにしたいねと、今まさに取り組んでいるのが木下牧子作曲のアカペラ曲「夢見たものは」でした。大急ぎで楽譜を広げたら立原道造の名がありました。本当に嬉しかった。
    ヒヤシンスハウス、きっと近いうちに訪れたいと思います。

  • #27

    まりお (水曜日, 21 2月 2024 10:24)

    娘が大学で建築を学んでいた影響で、建築に興味を持ちました。
    アアルト派というのも立原道造という人物を知りたい要因の一つです
    ヒアシンスハウスはまだ行けておりませんが、ますます見たくなりました
    生きていらしたら詩や建築、どんな作品を残したでしょう。こちらの記事も興味深く楽しめました
    色々と想像が巡ります

  • #28

    ぼたにい (月曜日, 09 9月 2024 12:57)

    大学の建築学の授業で扱われ、当時は良さが分からなかったのですが、こちらのページを拝見して興味が湧いてきました。今週末行ってきます!

  • #29

    川村芙美(名作の語りべ) (水曜日, 18 9月 2024 11:53)

    式子内親王のホトトギスの歌を副題とする立原の【ひとつのソネット】を皮切りに
    彼の詩をユーチューブでアップしております
    やがて五回目となります
    タイトルは『風のように生きた詩人立原道造』です

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。