JR御茶ノ水駅から駿河台下へ向かうメインストリートに磯崎新の作品がある。
東京には数少ないが、磯崎新の代表作だ。
この低層部は、1925(大正14)年、ウイリアム・メレル・ヴォーリズによって設計された「主婦の友社」の旧社屋だ。老朽化し、修復保存の予定で着工したが、耐久力が不足していたため、取り壊し、もと通り再建し、その裏に高層部とさらにその裏に室内楽専用のコンサートホール「カザルスホール」を建てたもの。
『主婦の友』は第二次世界大戦直前に最盛期を迎え、最大160万部の売り上げを記録したという。戦後もしばらくはその勢いを維持したが、次第に多様化した雑誌に読者を奪われ、ついに廃刊に追い込まれた。
旧主婦の友社部分は元とほとんど変わらない姿に再建され、街の雰囲気をよく留めることに成功した。古い建築は取り壊して、新しい建築を目一杯つくるのが日本の常識のようになっているが、磯崎は保存と再生の新しい可能性を示した。
すでにモダニズムの最盛期はすぎ、ポストモダンがもてはやされていた時代。
蘇ったヴォーリズのファサードは新鮮な魅力をたたえていた。
壁面の装飾も忠実に再現された。
高層部のデザインがいかにも磯崎新のもの。青いラスタータイルの壁面に正方形の窓を規則正しく配置している。しかも大きなベランダのような張り出しがアクセントとして取り付いている。
機能から生み出されたデザインではない。街のシンボルとしてデザインされたものだ。師丹下健三への挑戦ともいえよう。
堂々とした風格をたたえている。
このシンメトリー、近代建築が排除したルネッサンス、バロックの特徴だ。磯崎はこれを堂々と採用して、なにか悪いか、と開き直っているようだ。
最上階を貴賓室にあてているが、それが街のシンボルとしても、みごとに安定した存在感をたたえている。
復元建築の間は小さな広場のように空間をつくり、にシンボリックな庇がかかっている。
庇によって、シンメトリーのシンボル性がさらに強調されている。
そこに2層分の大きな扉がついている。
庇はあくまでもシンボルだ。
しかし、この庇は単にシンボリックな庇というだけではない。この奥に街の広場ともいうべき大きなホールの存在を暗示している。
ホールは4層分の大きなものである。
磯崎は、この大扉は常時開放を考えていたという。
窓や扉は新しいデザインだが、壁面は装飾で覆われている。
いまはシャッターが閉まったままだが。
装飾豊かな壁面は街に彩りを添えている。
100年近くこの街に親しまれてきた壁面だ。
側面、植木鉢の並んだ屋上、四角いガラス窓、時代を超越した表現だ。
布を垂らしたような表現を石で造っている。バロックの手法だ。近代建築に導入された遊び心。
装飾を拒否した近代建築に、新しい装飾で挑戦しているわけだ。
ヴォーリズは宣教師として来日し、布教の手段として建築設計をしたり、メンソレータムを売ったりした。しかし、建築設計は布教の手段という段階をはるかに超えて、膨大な優れた作品を残し、とくに関西地方にはいまも多くの素晴らしい建築を残している。ヴォーリスの建築の特徴は建築家ではなく特に関西で一般市民に愛されたこと。これは東京の代表的な作品なので、存在価値は高い。
時代を超えた不思議な壁面だ。
ヴォーリズと磯崎が格闘している。というよりも、楽しそうに対話しているのかもしれない。「おぬし、ようやりおるのお」「いえ、まだまだ」なんて声が聞こえませんか。
カザルスホールへのエントランス。
お茶の水スクエア全体が、2001年日本大学に買収され、2010年にはカザルスホールが閉鎖されてしまった。
カザルスの名称は、1987年室内楽専用ホールとして発足するにあたり、スペインを代表する音楽家パブロ・カザルスの名前を借りたもの。その際、カザルス夫人からいつまでも守ってほしいという条件で使用許可をもらって経緯がある。
カザルスの代表曲「鳥の歌」にちなんで鳥のマークも使われた。
日大がここを買い取ったあと、取り壊して再開発すると発表したときには、国内の代表的な音楽家たちが存続を願って要望書を提出し、スペインからは国民的な音楽家の名を汚すと抗議の声があがった。
日大はここを文化的な拠点としての価値を理解して運用する気があるのか、あるいは単なる利用価値のある土地として再開発しようとしているのか。
日大の大学法人としての見識が問われている。
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柳下龍彦 (木曜日, 06 6月 2019 07:12)
中小の音楽ホールの運用がどこでも難しいのは分かる。しかし我々音楽ファンが期待していたのは、オーナーが変っても、引き続き国内外の優れた音楽家の演奏が聴ける、という事だった。文化的、芸術的意義からもっと東京都や千代田区の行政が介入しても良いのではないか。一私大の巨大大学運営の観点からのみ貴重な文化財の運営が私視されるべきではないと考える。