2016年

11月

24日

シドニー・オペラハウスを見る

シドニー・オペラハウス 設計:ヨーン・ウッツォン 1957〜1974年
シドニー・オペラハウス 設計:ヨーン・ウッツォン 1957〜1974年

オペラハウスは、シドンーの湾に突き出した岬の先端に、何者にも邪魔されることなく、美しい姿を現した。

何よりも、ポートジャクソンという絶妙なロケーションで圧倒的に有利な地位を確保している。

これ以上ない素晴らしい場所である。

そして、この場所にふさわしいヨットを思わせる素晴らしい形を与えられている。

近代建築は数々のコンペを通して傑作を送り出してきたが、この建築を生み出したコンペほどドラマチックなコンペは他に聞いたことがない。

1956年、国際コンペには世界中から233の案が集まった。

ヨーン・ウッツォンのこの案は、当初、一次審査で破棄されたものであった。簡単なスケッチしかなく、コンペの応募条件を満たしていなかったとも言われている。しかし、遅れて来た審査員エーロ・サーリネンがこれを拾い上げ、熱心に推奨したため一位に浮上したのであった。

審査員のサーリネンは当時アメリカを代表する建築家として丹下健三と肩を並べて建築雑誌の紙面を賑わせる絶好調の建築家であった。

一方、選ばれたウッツォンは、当時はほとんど無名のデンマークの建築家であったが、このコンペにより一躍世界の注目を集めた。

コンペが行われた1956年といえば、日本では戦後11年目、まだ焼け野原が広がる時代であり、神奈川県近代美術館(1951)ができ、続いて、神奈川県音楽堂(1954)ができてまもないころであった。神奈川県音楽堂はコンペにより前川国男が勝ち取ったもの、戦後初の本格的なコンサートホールとして、今も高い評価を得ているが、当時の模範的なロンドンフェスティバルホールに学んだ初期モダニズムの生真面目な近代建築であった。それらは四角い箱形の建築であった。

これらと比べると、このシドニー・オペラハウスがいかに斬新なものであったか、改めて驚かされる。

この時代にこれだけの案を選んだ先見性はすごいものだが、それだけに、建設にはとてつもない困難がともなった。

ウッツォンの案は、シドニー湾にうかぶヨットをイメージした簡単なスケッチにすぎなかったといわれている。

サーリネンはそのスケッチがもっている可能性に着目したのである。

審査委員会も詳細な検討ののち、この造型は要求されている条件を十分満たす可能性がある、と判断し、決断したのである。

ウッツォンのスケッチ
ウッツォンのスケッチ

改めて、ウッツォンのスケッチと現実に出来上がった建築を比較してみる。

その理念はみごとに生かされている。見事なものである。

「オペラハウス」とともにシドニーを代表する「ハーバーブリッジ」は目の前にある。

http://www.skyscrapercity.comより転載
http://www.skyscrapercity.comより転載

航空写真を見ると、シドニーの市街地から少し離れ、シドニー湾に突き出した岬の先端に位置していることが分かる。

この建築は主として二つの大きなブロックからなっていること、さらに後方に小さなものが隠れていることがわかる。

右側が2,679席のコンサートホール、

左側が1,507席のジョーン・サザーランド劇場(オペラ劇場)。

そして後方に544席のドラマシアター、地下の398席のプレイハウスから成り立っている。

 この角度から見ると、ヨットというよりまるでフジツボである。

しかし、実はこの建築の非常に重要な部分はこのフジツボを乗せている基壇なのである。基壇のなかに劇場に要求される基本的な機能を収めている。室内楽用の小ホール、実験劇場、入口ロビー、クローク、便所、荷捌場、大道具置場、出演者控え室、意匠部屋、かつら部屋、楽器室、レストラン、冷暖房の設備等である。

このように基壇で劇場を支える全ての機能をさばいたうえで、その上に美しい大小のホールの上部構造が軽やかに置かれているのである。

こんどはオペラハウスに近づいてみる。

広い基壇に登ってゆく。大勢の人々で賑わっているようだ。

青空のもとに上部構造の白い曲面が輝いている。

非常に大勢の人々が集まっている。

地元の人も観光客も、なんとなく、この辺にたむろしている感じだ。

赤い基壇の上に、白い幾重にもおり重なったドームの曲面が白く輝いている。

ウッツォンのイメージをいかにして実現するか、構造は困難を極めた。イギリスの構造エンジニア、オブ・アラップが協力したが、当初は卵の殻のような薄肉のシェル構造を考えていた。

しかし、それはここでは力学的に成立せず、いくつもの案を検討したあげく、最終的にはプレキャストコンクリートのアーチを並べる方法で実現された。アーチは5個〜10個の大きなブロックを繋げて特殊な鉄筋で緊結したものであった。しかもその曲面は全て同一の半径75メートルの球体の一部というものであった。

この同一の球体の一部というウッツソンの着想が決定的に重要な着想だったと言われている。

これによって、プレキャスト・コンクリートのパーツを造る際に一定の形を繰りかえし適用することができた。それは仕上げのタイルの割り付けまでおよぶ合理的な解決策であった。

コンクリートのヴォールトを造り、その上にタイルを貼った薄い卵の殻のような仕上げの殻を取り付けた。部材はすべて地上で整形したのちクレーンでつり上げてとりつけた。

こうした合理的な工法によって、この巨大なドームをつくるのに足場なしですべてクレーンの操作によって行われたという。

肉厚のプレキャスト・コンクリートのリブがよく見える。意外と重厚だ。

ここを見ると同じ形のリブヴォールトを繰り返していることがよくわかる。17本のヴォールトが扇形に寄り集まってドームを形成している。

40数年たったものとは思えない美しい輝きである。

球面の組み合わせに非常に苦心していることがわかる。メインの曲面もサブの曲面も同一の球体の一部である。

当時は、まだコンピューターを駆使して設計することはできなかった。図面はすべて手書きであった。適切な曲面を探す気の遠くなるような試行錯誤が行われた。

プレキャストコンクリートの部材を乗せる現場打ちコンクリートの脚部。デザイン上、もっとも悩ましい部分だが、むぞうさに処理されている。

タイルが同じパターンで繰り返していることがわかる。

ウッツォンはデンマークの人だが、タイルは隣国スウェーデン産で、105万6000枚が使われたといわれている。

同じ形のタイルが繰り返し使えるように工夫されている。2色のタイルであることがわかる。

中心には青っぽく見える正方形のタイル、その脇には少しずつ形の違うグレーぽいタイル、このタイルは厳密にいうと1枚ずつ全部ことなるはずだが、43種類のタイルに標準化されているという。

ドームの外皮は、卵の殻のような薄いコンクリート版にタイルを貼ったうえで並べたもの。

乾燥した地域のため、コケが生えるようなことがなく、出来たばかりのようなきれいな状態である。メンテナンスもよく行われていると思われる。

薄肉シェルをあきらめコンクリート製のリブとしたため、このあたりの納まりが、いかにも重厚だ。コンクリートのピースの継ぎ目が見える。

コンクリートの内側。現場打ちのコンクリートの台の上にプレキャストコンクリートの最初のピースが並んでいるところ。ギザギザになっている形は、コンクリートのピースを締め付けた特殊な鉄筋を固定するための受け皿である。

大勢の人々が、この海沿いのテラスでゆったりと過ごしている。

ここはオープンなレストランになって、つねに賑わっている。

海に向かって重層している部分。

テラスは上部のシェルの白と対照的に赤い石で統一されている。ここにはあまり人がいない。

左側が、ジョーン・サザーランド劇場(オペラ劇場)。右側の少し見えたいるのが大きなコンサートホールである。曲面のガラスがラウンジの窓になっている。

シドニーの中心市街地から歩いてすぐという立地がよくわかる。

テラスを支えているマッシュルーム構造の柱。煩わしい梁がないため、スッキリしている。

半戸外のレストラン。

いよいよ劇場に入ってみる。

ここは、オペラを上演している「ジョーン・サザーランド劇場」の正面アプローチ。

正面のロビー。ごついコンクリートのアーチの下にパイプオルガンのような木造の壁が立ち上がっている。

きょうの演目は「マイ・フェアレディ」。昔、オードリー・ヘップバーンのミュージカルで一躍有名になったもの。

粗野な英語しか話せない、貧しい花売り娘に優雅なキングスイングリッシュを教え込み、みごとに社交界にデビューさせるお話。

ストーリーはヘップバーンの名作とまったく同じだった。

ロビーに少しずつお客が集まりはじめた。

はじめからバーが開いている。

バーの向こうには湾を見渡すテラスが広がっている。

テラスには着飾ったご婦人たちが集まりはじめ、飲み物を片手に海を見ている。海に開いた劇場という、ここでしか見られない光景だ。

劇場自身はとくに変わったものではない。

ヨットのような外観からは想像できない普通の劇場だ。

つまり、劇場という機能とヨットのような外観は何の関係もない。

「形態は機能に従う」という近代建築のもっとも重要な定義がここではまったく無視されているのだ。

外観は外観、内部は内部、勝手にやってください、というわけだ。

正面の緞帳のように見えるものは半透明のカーテンで、絵は緞帳ではなく投影されたものであった。

どこからでもよく見え、よく聞こえるような気がする。

座席の間に通路がないので、真ん中の人は出入りがタイヘン。

3階になると、かなり見下ろすことになる。

幕間の休憩時間は、後部のロビーも人気だ。ここからは湾の大きな景色が楽しめる。

あの形を生かして快適な空間を生み出すためにかなり苦労したあとが見てとれる。

着工してから竣工まで15年ほどの年月と、当初予算の14倍という巨額の建設費がかかり、途中で設計者のウッツォンが解任されてデンマークに帰国してしまうという、なんとも困難な経過をたどったが、できてみると、そんな無理を感じさせない見事な出来映えである。

市民も観光客も楽しみ、誇りに思う、シドニーのみならず、オーストラリア全体を代表するモニュメントとして見事に役割を果たしていると思われる。

2007年には「人類の創造的才能を現す傑作」として世界遺産に登録されている。

 

しかし、いくつかの疑問が残った。

「シドニー・オペラハウス」の名称にも関わらず、なぜ、オペラが小ホールで上演されているのか?

そして、小ホールに「ジョーン・サザーランド劇場」という名称がついているのはなぜか?

オペラ劇場なのになぜ緞帳がないのか?

 

帰宅後、調べてみると、オペラハウスの建設を巡って、政治的な圧力が加わった意外な事実が分かってきた。

じつは、この建築はコンペが行われたのは1956年、竣工したのは1973年、なんと17年の歳月を要している。

ウッツォンは1957年に入選の知らせを受けると、デンマークの事務所にスタッフを集めて設計を始める。このとき、たまたま日本からブラッセル万国博覧会日本館の現場監理に出向いていた前川国男建築設計事務所の三上祐三を前川に頼んでスタッフに加え入れている。

この時からイギリス人の構造家オブ・アラップの協力をあおぎ、ウッツォンとアラップの密接な協力が始まる。二人の大きな努力の末に、ドームまで完成し、いよいよ劇場の内部に掛かろうとしたときに大事件が襲いかかる。

一つは、オールトラリア放送機構の会長から、それまで予定されていた大ホールはオペラとコンサート、演劇の多目的ホールとされていたのをコンサート専用にし、オペラは小ホールに追い出すよう横やりが入ったのである。

しかも、1966年にはそれまでオペラハウスの建設を推進してきた労働党政権が破れ、保守党政権のもとで、ウッツォンは解任され、それ以降はオーストラリア建築家のチームにまかされてしまう。

ウッツォンはデンマークに帰国し、二度とオーストラリアの地を踏むことはなかった。このため、この建築の外皮はウッツォンの設計どおりに忠実に完成したが、内部はまったく異なるものになってしまった。

大ホールからステージタワーが除かれ、小ホールでオペラを行うという、窮屈な劇場になってしまった。

 

しかし、完成後、この小劇場を活用したのは、シドニーが生んだ天才的なオペラ歌手ジョーン・サザーランドであった。彼女はヨーロッパで絶大な成功を収めたあと帰国して、この劇場で最後の活躍をしたのである。

いま、この小ホールに「ジョーン・サザーランド劇場」の名がついているのは、そのためである。

形態と機能が分離した、むしろシンボル性に特化したこの建築は、典型的な後期近代建築、レイトモダン、あるいは、ポストモダンの先駆けといってもいいかもしれない。

構造とデザインの統一を目指した丹下健三の代々木の競技場と比較するとその違いがよくわかる。

とは言ってもこれは、近代建築の傑作といって間違いない。

近代建築でこれほど市民に愛され、親しまれている建築はないだろう。もはや、この建築なしにオーストラリアをイメージすることはできない。

オペラが終わったのは11時を過ぎていた。対岸のライトアップされたハーバーブリッジが夜の港に浮かんでいた。

シドニー中心部まで徒歩で30分ほど、安心して歩ける。

ライトアップされたオペラハウス。

夜空に白く浮き上がっている。

この建築はコンペから竣工まで17年という長い年月がかかり、当初予算の十数倍という莫大な費用がかかったといわれている。

政変のため、建築家が解任されるというなんとも不幸な結末になったが、完成の暁には、世界に誇るシドニーのみならずオーストラリアを代表するモニュメントとなった。

 

オリンピック競技場を国際的なコンペで選んでおきながら、費用がかかりすぎるといって破棄してしまった日本とは大きな違いがある。

 

この記事はウッツォンの設計に重要な役割を果たした三上祐三著『シドニーオペラハウスの光と影』(2001年、彰国社)を参考にした。

なお、三上はこの仕事が終わったあと帰国して、東京渋谷文化村のオーチャードホールを設計し、シドニー・オペラハウスで果たせなかったオペラとコンサート等の多目的ホールを実現させている。

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。