猿も木から落ちるー千利休とファグス工場

宮武先生が今日はなんだか神妙な表情だ。顔色が冴えない。

「先生、どうしたんですか?顔色が悪いですよ」元気いっぱいの恵美ちゃんが心配そうに先生の顔を覗き込む。まだ2月というのに、ピンク色の明るいスカーフが春を呼んでいるようだ。

今日は、市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷の2階、レストラン・フォッセに集まった。

 

「じつは、先週の研究会で、論文の間違いを指摘されて、えらく攻撃されたんだよ。ほんとにまいったなあ。」

「あーら、先生でもそんなことあるんですか?」

「かなり、自信のある論文だったんだけど、ついうっかりミスをおかした。それが致命的なミスだった。」

「いったい何をやっちまったんだい?」と赤いハンチングをかぶった東郷さん。

「うん、数寄屋建築を論じた論文のなかで、千利休に触れたんだけど、利休をうっかり利久と書いてしまったんだ。

「単なる変換ミスじゃないか、気にするなよ。さあ、飲もう。」と東郷さんはビールのジョッキをあげた。まだ時間が早かったので、お客は少なく、気品のある室内は静かだ。大きな窓からは外堀が見渡せるが、桜にはまだ早い。

 

「それがね、しつこいヤツにつかまってね、利を休むというのが利休の思想なのに、利を久しくすると書くとは、利休の思想をまるで判ってない、と攻撃されたんだよ。まいったなあ。」

「私は文学部の出身だから」と恵美ちゃん「たしかに、文系の研究者にはそんな間違いは許されないけど、建築学科なら、たいしたことではないと思いますけど。」

「しかし、言い訳のしようがない。」

「私は、利休の名の由来は「名利、既に休す」と教えられてきました。つまり名誉やお金に執着しない気持ちを表しているらしいですね。」

「なーに、猿も木から落ちる、気にするなよ。」東郷さんは気楽に慰める。「文系の人は利休という人間に興味があるけど、建築の連中は、茶室に関心が向かうんだからしょうがないよ。」

 

「それで、悔しいから、いろんな人の論文をチェックしてみたんだ。そうしたら、なんと丹下健三が利久と書いているんだ。『新建築』の誌上で闘わされた伝統論争と言われている有名な論文の一つ(*1)なんだけど。」

「ええーっ、丹下さんがねえ。」

「驚くのはまだ早い。大江宏も同じ間違い(*2)をやってるんだ。」

「なんだって! 二人は、戦後日本の建築界を代表する巨匠、しかも、東大を同じ年に卒業した秀才と言われているけど。」

「なーに、驚くのはまだ早い。もっと驚くのは、磯崎新も同じ間違い(*3)をやってるんだよ。」

「えーっ。まさか。博覧強記の磯崎がそんな間違いするわけないだろう。」

「そうだよなあ。だけど、ほんとなんだ。堀口捨己を論じた文章の中でこの間違いを繰り返しているんだよ。」

「でも、それって、雑誌の編集者の校正ミスではないのですか?」

「たしかに、編集者にも責任はあると思うよ。だけど、同じころ掲載されている、建築史家の太田博太郎とか、利休研究で有名な堀口捨己の文章ではそんな間違いはしていないんだよ。」

「じゃあ、やっぱり、建築家だから、あまり深い知識はないのに利休に触れてしくじったということかなあ。」

「恐ろしいなあ。この3人は東大を出た、建築界では最高の知性といっても間違いない人たちなんだけどなあ。」

ソーセージにかみつきながら、宮武先生は、いささか投げやりにつぶやいた。

「大先生の間違いを見つけて、おれも、ずいぶん気が楽になったけどねえ。」

 

ビールを飲み干して、しばし考え込んでいた東郷さんが、

「じつは、おれも最近、驚いたことがあるんだ。」とゆっくり口を開いた。

「昨年(2014)の1月にTBSのTHE世界遺産という番組が、モダニズム建築の走りとして有名なファグス工場を取り上げたんだ。現地に取材したとっても良心的な番組だったので、めずらしくよく見ていたら、なんとあの工場は靴工場ではなくて、靴型工場だったんだ。われわれは、ずっとファグス靴工場と思っていたけど、現地の工場はブナ林に囲まれて、ブナの木を使って靴の木型を作っていたんだよ。

グロピウスとマイヤーが設計したモダニズムの最初期の傑作なんだけど、いまだに建設当時のままきれいに使われているのに驚いたよ。」

ファグス靴型工場
ファグス靴型工場:設計グロピウス+マイヤー、1912年(TBSホームページより)

「しかし、靴工場というのは、おれだけの思い違いかと思って、改めて、日本建築学会の『近代建築史図集』や『近代建築史』(桐敷真次郎、共立出版)『近代建築史』(鈴木博之編著、市ヶ谷出版)を見直してみたけど、やっぱりどれも「ファグス靴工場」となっていたね。」

「へーっ、そんな大先生でも間違ってきたんだ。」

ファグス靴型工場、室内(TBSホームページより)
ファグス靴型工場、室内(TBSホームページより)

「靴工場と靴型工場では、工場のなかはぜんぜん違いますよね。」

「そうなんだよ。靴型工場では、ブナの木を削って靴型を作っていたんだ。革を扱う靴工場とはまったく違う。一目みればわかる。つまり、日本の研究者はこれまでだれも現地を確認していなかったということなんだよなあ。」と東郷さん。

「あらあら。間違いって、あるもんなんですね。」

「しかし、いったん印刷されて本になると、永久に残ってしまうからなあ。恐ろしいよ。」

 

「間違いはどこにでもあるということだ。宮武先生、そんなこと忘れろよ。さあ、飲もう。」東郷さんがグラスをぐっとさしだした。

 

 (*1)「現代建築の創造と日本建築の伝統」『新建築』1956.6. 丹下健三

 (*2)「堀口捨己の人とその建築」『建築文化』1957.1. 大江宏

 (*3)「堀口捨己論ー様式の併立」『昭和建築史』(『新建築臨時増刊』1976.11. 磯崎新

案内する人

 

宮武先生

(江武大学建築学科の教授、建築史専攻)

 「私が近代建築の筋道を解説します。」

 

東郷さん

(建築家、宮武先生と同級生。)

「私が建築家たちの本音を教えましょう。」

 

恵美ちゃん

(江武大学の文学部の学生。)

「私が日頃抱いている疑問を建築の専門家にぶつけて近代建築の真相に迫ります。」

 

■写真使用可。ただし出典「近代建築の楽しみ」明記のこと。

 

■ブログ記事目次

・日本の近代建築

埼玉会館を見る

ヒアシンスハウスを見る

カップマルタンの休暇小屋(レプリカ)を見る

金沢市立玉川図書館を見る

鈴木大拙館を見る

金沢21世紀美術館を見る

宮脇檀の大邸宅

自然環境を手に入れた研究所-ROGIC

築地本願寺を見る

電通本社ビルのいま

埼玉県立博物館を見る

消えて行く近代建築の名作

世田谷区役所・区民会館を見る

お茶の水スクエア

今井兼次の「フェニックス・モザイク」

大学セミナーハウスの壮大な実験

小さな傑作「碌山館」の魅力

アテネフランセに改めてビックリ仰天

神奈川県立音楽堂を見る

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館を見る

香川県立丸亀武道館を見る

香川県文化会館を見る

香川県立体育館を見る

香川県庁舎を見る

倉敷市立美術館(旧倉敷市庁舎)を見る

前川国男の「林原美術館」を見る

所沢高層マンション火災の教訓

山口蓬春のアトリエを見る

 

さらば「カマキン」(神奈川県立近代美術館鎌倉館)

猪股邸を見に行く

林芙美子邸を見に行く

前川国男自邸を見に行く

東光園の今

究極の透明建築:日立駅

京都国立博物館・平成知新館を見る

屋根のある建築

水と遊ぶ建築

モダニズムの結晶

大江新太郎設計の「清明亭」を見る

世界平和記念聖堂で考える

広島平和記念資料館を見る

 

厳島神社を見る

杉の魅力を引き出した馬頭広重美術館

仙川安藤ストリートを行く

 

KITTE、保存建築の光と影

代官山蔦屋書店の快楽

京都駅はやっぱり面白い

 

歌舞伎座の悩ましさ

透明感きわだつ軽井沢千住博美術館

都市中心部を活性化した「アオーレ長岡」

武蔵野プレイス図書館未来型?

屋上庭園が主役の東急プラザ

 

真壁伝承館の驚き

 

・海外の近代建築

ユーゲントシュティール建築の驚き

シドニー・オペラハウスを見る

バルセロナ・パビリオンの不思議

ショッピング・モールに変身した闘牛場

カサ・ミラが楽しい

 

ガウディの栄光と悲惨

仁寺洞(インサドン)のショッピングモール「サムジキル」

 

・展覧会

「建築の日本展」を見る

フランク・ゲーリー展を見る

 

・国内の旅行

築地松の風景

雨の桂離宮を歩く

北山杉の里を見にゆく

奥の細道、山寺に登る

戸隠を歩く:水芭蕉の咲く林編

戸隠を歩く:中社・奥社編

 

・海外の旅行

バルト三国の建築ーエストニア(タリン)

バルト三国の建築ーラトビア(リガ)

バルト三国の建築ーリトアニア〈ヴィリニュス〉

ユーゲントシュティール建築の驚き

ドイツを歩く—6:ミュンヘン(常軌を逸した建築道楽)

ドイツを歩く—5:ローテンベルク(古都に残る石工の技)

ドイツを歩くー4:ハイデルベルク(哲学者が見た街)

ドイツを歩くー3:フランクフルト(超高層ビルが建つ街)

ドイツを歩く−2:ベルリン(ただいま工事中)

 

ドイツを歩く-1:ドレスデン(蘇る古都)

良洞民俗村(ヤンドンミンソクマウル)

慶州・仏国寺と瞻星台(せんせいだい)

釜山チャガルチ市場

釜山シネマセンター

 

お隣の大都市・釜山

ベトナム建築とは?

ベトナム 街の建築を見る

ハノイ、ホテル・ソフィテルメトロポール

ベトナム、フエのホテル・サイゴンモリン

 

ベトナム、ホーチミン市のホテル・マジェスティック