1950 年代に伝統論争などを仕掛けて建築界に議
論を巻き起こしていた『新建築』は、村野藤吾の作
品「そごう読売会館」(1957年8月号)の扱いをめぐっ
て社長吉岡保五郎の逆鱗にふれ、川添登を筆頭に宮
内嘉久、平良敬一、宮島圀夫の各氏が一斉に退社し
た。社長は『新建築』に評論はいらないと決めつけた。
いわゆる「新建築問題」である。退職した編集者た
ちはそれぞれ評論家、編集者、新雑誌を起こすなど
して、10年後の1960年代の半ばには、多くの建築
雑誌が乱立して競い合う状態になっていた。
『新建築』『建築文化』『国際建築』『近代建築』の他、
新たに、『建築』『SD』『都市住宅』など個性的な雑誌
が加わった。
私が大学を卒業して、新建築社に入った1966年
はまさにそんな建築雑誌が乱立し、競い合った建築
雑誌の黄金時代だった。
当時の『新建築』は、個性的な編集者を失ったあと、
清家清らのサポートを受けて、早稲田大学の建築学
科を卒業した馬場璋造を中心に新しい編集体制を整
えつつあった。当時の奥付を見ると、1968年の3 月
号まで、「編集発行人 吉岡保五郎」だったのが、4 月
号から「発行者 吉岡保五郎 編集者 馬場璋造」と編
集者が明記された。
1966 年の『新建築』は、そんな馬場璋造の編集体
制が完成しつつある状況だった。
この時代の建築雑誌を飾る建築は、今からは想像
もできない豪華なものだった。
ちなみに、私が入社した1966年の7 月号には、前
川國男の「埼玉会館」、大江宏の「香川県文化会館」、
菊竹清訓の「都城市民会館」、芦原義信の「ソニービ
ル」、そしてルイス・カーンの「ソーク生物学研究所」
が紹介されているのである。
たった1 冊に戦後の近代建築を彩る問題作がこれ
だけ掲載されていることに改めて驚かされる。
もちろん、この前後にも名作が目白押しだ。
埼玉会館
『新建築』には、いまだに続いている「新建築住宅設
計競技」という企画がある。毎年、一人の審査員が(初
めの頃は複数人で)テーマを決め、審査し、入選者
を決め、賞金を授与するという名物企画だ。
今年で50 回を超えるはずだが、審査員には内外
の著名な建築家を招いており、応募作品も世界中か
ら集まってくる。
磯崎新が審査した回(1975 年)の受賞者が全員外
国人だったことは、関係者を戸惑わせたが、磯崎が
コンペで必ず問題を起こすという伝説はこの頃から
始まっていた。
その1966 年の審査結果が11 月号に掲載されてい
る。審査員は丹下健三、1964年に「国立代々木競技場」
と「東京カテドラル聖マリア大聖堂」を完成し、さ
らに70年の大阪万博に向けて絶好調の時代だ。テー
マは「大都市に住む市民のための住宅」さらに「都
市住居のあり方とその連結のステムを提案せよ」と
いうものだった。
興味深いのが、その審査結果だ。なんと2等に相
田武文と神谷五男のペア、さらに石山修武が選ばれ
ているのだ。同号には丹下と相田・石山が同席した
座談会が掲載されており、丹下は石山の案を形が面
白いと褒めちぎっている。石山修武は、丹下に見い
だされて、『新建築』にデビューしたという意外な事
実がわかる。
同じ年、前川國男の東京海上火災の高層ビル案が
政治力によって差し止められ、いわゆる「美観論争」
が誌面を賑わしている。5 年間の論争のあと、5階分
低くして建った高層ビルが、40年後の今年取り壊さ
れている。
私は新建築社に1970年まで在社したが、その間
に、宮脇檀、磯崎新、白井晟一などの作品を取材し、
ページを担当した。
宮脇檀の作品は山中湖畔にできた石津謙介の「山
荘・もうびぃでぃっく」だった。
木造ながら、まるで鯨が横たわっているような手の
込んだ建築だった(『新建築』1967年1 月号)。
宮脇の運転するフォルクスワーゲンに乗って、山
中湖の敷地まで行った。当時の宮脇は吉村順三の弟
子として、一点一画を疎かにしない工芸品のような
住宅を作っていたが、同時に博覧強記で建築界の情
報通だった。こんな機会に聞かされた話は建築の真
髄に触れるものだった。
東京海上火災ビル
磯崎新は、大分市にできた「福岡相互銀行大分支
店」の取材だった。ここは銀行の営業室にピンク色
のブリッジが飛び、ピンク色の空調ダクトがずらっ
と並んだ、とても銀行とは思えない異色の建築だっ
た。磯崎から、誌面にピンク色の図面を押し付け
られたのには閉口したが、押し切られた(『新建築』
1968年3月号)。
白井晟一は、佐世保にできた「親和銀行本店」の
取材だった。白井の有名なスケッチ「原爆堂」を思
わせるエントランスホールのある、異様な迫力のあ
る建築だった。一体どう理解し、どう誌面を構成し
たらいいのかわからない、信じがたい建築だった
(『新建築』1968年2月号)。
この建築の評論を磯崎に依頼したところ、快諾し
てものすごい作品論を書いてくれた。タイトルだけ
で81字もあった。
「凍結した時間のさなかに裸形の観念と向かい合い
ながら一瞬の選択に全存在を賭けることによって組
み立てられた《晟一好み》の成立と現代建築のなか
でのマニエリスト的発想の意味」
この文章は、後に初の評論集『空間へ』(河出文庫、
2017)に収まっている。
白井晟一はそれまでに、十分異色の建築家と思わ
れていたが、どうしても、近代建築の規範からはみ
出した、まやかしの舞台装置のような建築と見る人
も少なくなかった。
磯崎はこの建築の各部を逐一俎上に載せて、分析
し、白井建築の本質を「マニエリスム」と定義して、
近代建築の中にその居場所を見事に指定してみせた
のである。
「親和銀行大波止支店」設計:白井晟一
白井にとってこの論考の価値は計り知れないもの
だったと思われる。
後に、つくばセンタービルのプロポーザルで、設
計の趣旨を嘲笑するような磯崎案を選んだ審査員の
中に白井晟一が座っていたこと、さらに、設計の最
終段階で低層部分の外壁を全部コンクリート破
はつり仕上げと要求された際に、白井が会議の大半の時間を
使って建物の将来にわたる永続性を説き、外壁は石
にすべきと力説し、このため出入り口回りの石積み
が実現した(『建築文化』1983.11)。白井と磯崎、対
極にいた二人は理解し尊敬し合っていた。
建築評論家の松葉一清によれば、建築界のノーベ
ル賞と言われているプリツカー賞の審査委員を務め
ていた磯崎は、白井の資料を持参して、熱心に推薦
したものの、バロックなどを知り尽くしている海外
の審査委員からは、偽物だとしてまったく理解され
なかった。しかし、磯崎は毎年白井を推薦し続け、
ついに海外の委員もそれを理解して白井に受賞が決
まったが、その知らせの前年(1983年11 月)に白井
は亡くなっていた(『建築文化』1985年2月号)。こ
の賞は存命の建築家を対象にしているので、あげら
れないというのを磯崎は懸命に食い下がったがダメ
だった。
磯崎は、本気で白井を評価し、世界に理解を求め
ていたのである。
白井がプリツカー賞をもらっていたら、近代建築
の風景はもっと面白くなっていたに違いない。
万博のお祭り広場の装置設計を担当した磯崎から
記事をとるため何度も足を運んだが、万博から逃げ
ようとしていた磯崎は、結局何も語らず、万博から
身を引いた。私は万博の記事をまとめて新建築社を
退職した。
新建築社での4 年間は短かったが、時間がたって
みると、近代建築のとてつもない最盛期に遭遇して
いたことが分かってきた。
「つくばセンタービル」設計:磯崎新