東京駅丸の内北口ドームの下で東郷さんと恵美ちゃんが天井を見上げている。東郷さんはグレーのウールのハンチング、恵美ちゃんは白いレギンスパンツに長い脚を包んでいる。
「このドームはよく見るといろんな物がついてますね。」
「干支の動物が4つ足りないという話題が賑わっているね。」
その時、ちょうど宮武先生が黒いコートを翻して改札を出て来た。
「やあ、待たせてごめん。建築学会の歴史小委員会が長引いて…。
きょうは、ディテールの話だったよね。」
「はい、ディテールというものがよく分からないので、先生方に質問したのが始まりです。」と恵美ちゃん。
「きょうは、みんなカメラを持っていますね。では、これから丸の内の建築を回ってディテールを探しましょう。」
恵美ちゃんはソニーのミラーレス、東郷さんはキヤノンの一眼レフ、宮武先生はキヤノンのコンパクトデジカメだ。
「では、三人で役割分担します。恵美ちゃんは石のディテールを探してください。東郷さんは金属、私はレンガとタイルにします。では、自由に歩いて、1時間後に南口ドームの下に集合しましょう。」
「はーい。分かりました。」恵美ちゃんがミラーレスカメラを握りしめて駅前の広場へ飛び出した。先生たちもゆっくりとその後を追った。
1時間後、宮武先生と東郷さんが疲れた脚を引きずるようにして南口ドームの下へ戻ってきた。
やがて恵美ちゃんも帰ってきた。
「では、2階の虎屋カフェでお茶を飲みながら話をしましょう。」
「面白かったなあ。まだまだ撮りたいものがいっぱいありました。」席につくなり恵美ちゃんが声をはずませた。
「私はあずきとカカオのフォンダンをお願いします。」
「えーっ。メニュも見ないうちに…」
「だって、きのうから決めてあったんだもん。」金色の小さなイヤリングが細かくゆれた。
「くたびれたなあ。しかし、ディテールだけ見るのも面白いね。」と東郷さんが帽子をぬいだ。なかば白い頭髪がかろうじて頭皮を覆っている。
「そうですね。ディテールから新たな発見があるよね。」
「では、日本工業倶楽部からいきましょう。」
「この建築は外壁をていねいに保存してくれたから、ディテールもよく残っているね。」
「じゃあ、私の石の写真から見ていただけますか。」とまず恵美ちゃん。
「左手の小さい入口からきたね。」
「正面玄関よりこっちの方が好きなんです。上に石のお花が飾ってあるし、ビーズのような飾りの額縁が三段になっていて、とっても可愛いと思いました。」
「よく見ると石の切れ目とビーズ飾りがきっちりと揃っているのがとても几帳面で感心しました。」
「この建築は古典建築のしきたりを崩して、セセッションという新しいデザインを追求していますけど、まだギリシャ建築の部品が尾を引いているんです。」先生が解説した。
「しかし、このディテールは他では見たことがない。独創的な装飾だなあ。」
「ちょっと薄日がさしたら、その陰影がとっても奇麗でした。」
「うん。これはいいね。石の職人の手業を感じさせるね。」
「そうなんですよ。ディテールは職人の手、つまりそこに注いだ石工(いしく)の愛情が感じられるんだよね。」と先生はコーヒーに砂糖を入れながらつぶやいた。
「このビーズの一粒ごとをノミで削り出したのを想像すると、とっても愛(いと)おしい感じがしました。」
「上にちょっと変わった植木鉢がありました。」
「角張ったところが、このセセッションというデザインの特徴なんだよな。」
「古典的なギリシャの様式から、近代デザインの幾何学指向に向かって進み出したのがよく分かりますね。」
「あー、そういうことですか。そういわれるとなんだか分かったような気がします。」
「窓の下に、赤ちゃんのよだれかけのようなものがありました。」
「ただ窓を開けるのではなく、一つの窓にこれだけ手間をかけているんだね。」
「このために窓に表情ができています。」
「この時代の建築にはその表情というものがあったんだよね。」
「モダニズムの建築が失った大切なものかもしれません。」
「こんどは、おれの番だ。」東郷さんがカメラをとりだした。「金属でいこう。玄関上のランプだけど、のこぎりのようなギザギザがめだつね。」
「これは玄関横のランプなんだけど、周りをわらびのような装飾が囲んで、角張ったガラスの稜線には上向きのギザギザがある。」
「全体に角張っていますねえ。」
「はい。角張った幾何学的な線が出てくる典型的なセセッションのデザインです。」
「ドアの把手だけど、ここも本当に角張っているね。」
「なんだか、ギザギザの模様もさっきの石から繰り返してますね。」
「ギザギザはこのデザインの特徴らしいなあ。」
「金属の質感を強調しているようなデザインだなあ。」
「これは不思議なデザインなんだよね。」
「さっきの石のビーズを引き延ばしたみたいです。」
「上の波形といい、パイプといい、繰り返しの手法がここでも見られる。」
「これも面白い装飾だよね。」
「ソーセージみたい。長いのと丸いのと。」
「玄関の上のステンドグラスだ。内側から撮らせてもらった。」
「とっても優しいデザインですね。」
「うん。ここだけは幾何学から解放されて、柔らかな植物が描かれている。」
「ホットしますね。」
「小さいものだけど、効いているなあ。」
「次は完全な近代建築。村野藤吾の日本興業銀行です。」
「垂直の柱が林立する印象的なビルだよね。」
「私は、この柱の中心のくびれが気になったんですけど。」
「一見、平らに見えるけど、よく見ると真ん中が膨らんで二本の溝があるんだよね。その中心に少し膨らんだ扁平なかまぼこ形を入れている。微妙なデザインだ。」
「フラットさを強調しながら、なおかつそこにアクセントを加えている。」
「その柱の足元です。」
「柱をいきなり地面に降ろさないで、いったん土台を作っている。浅いけど丁寧にデザインされていました。」
「近代建築には珍しい丁寧なディテールだなあ。」
「東京銀行協会も工業倶楽部と同じ松井貴太郎の設計だ。」
「レンガと石の組み合わせで、華やかな外壁になっている。」
「わたしは、ちょっとメルヘンチックな雰囲気があると思ったんですけど。」
「そうですね、ピクチャレスクな感じがあるんだけど、丸みがなくて、角が多いので、硬質な感じがありますね。」
「銀行関係だから硬いのかな?」東郷さんがつぶやいた。
「レンガと石の組み合わせ、とっても華やかですね。よく見るとじつに楽しい壁なんです。」
「意識的にフラットにしている所と微妙に凹凸をつけている所がありますね。」
「石もとっても手が込んでいると思いました。」
「そうですね。これは古典的な柱頭を崩したものだけど、なかなかよく考えたものだね。」
「角が鋭く出ています。たぶん硬い石を使って几帳面に細工したことがわかります。」
「では、私のレンガのディテールをお見せしましょう。」レンガ担当の先生の出番だ。「窓の上の部分だけど、アーチを平らにしたデザインなんだ。このレンガは一つずつみんな違う形に焼いたものだ。」
「あっ、引っ込んでいるのかと思ったら、平らなんですね。」
「ほんとだ、窓の上だけ、レンガが微妙な菱形になっている。」
「よく作りましたね。」
「石とレンガの組み合わせもうまいなあ。」
「石工とレンガ職人の息のあった協力もすごいですね。」
「同じデザインだけど、大きい窓のデザインだ。」
「レンガがもっと菱形になっていますね。」
「レンガの真ん中に石のキーストンが割り込んできて、力強いアクセントになっている。」
「石とレンガの組み合わせが非常に絵画的というか、装飾的な楽しいデザインになっています。」
「ディテールに注目して見たから目に入ってきたけど、いままではあまり注意して見たことはないなあ。」
「とっても可愛い親しみやすい雰囲気が伝わってきます。」
「いろんな職人の張りつめた仕事ぶりがよく見えてくるなあ。」
「これは、一見なんでもないレンガに見えるけど、角のレンガをよく見てくださいね。こんな角度のついたレンガをわざわざ作ったんですね。」
「うーん。微妙な角度だなあ。しかもよく揃っている。」
「言われないと分かりませんが、すごいことですね。」
「ここはお濠に面してきれいな道ですね。」
「そうだね。皇居の内濠の石垣と松に面した、日本で一番美しい大道りだと思うなあ。」
「いよいよ、様式建築の代表作、岡田信一郎の明治生命館だ。」
「岡田信一郎の遺作、明治、大正、昭和と続いた様式建築の歴史に終止符を打った作品と言われている。」
「これはよく保存してくれたね。まるごと全体を保存して公開してくれた。」
「私は最初に目についたのがこの窓の台でした。目の高さにあって、向こうから飛び込んできました。」再び石担当の恵美ちゃんだ。
「繊細なライン、微妙なふくらみ、いい形だね。」
「曲面の下の細いラインが効いていますね。」
「次に足元の土台が目に入りました。とっても複雑な曲線が組み合わせてありました。」
「凸面と凹面、そして繊細な直線。複雑なラインの組み合わせで重厚な土台を作り出しているね。」
「上の全重量を支える力強い土台を表現しているわけだ。」
「土台石のつなぎ目に出来たラインがとっても美しいと思いました。」
「いい所に目がいったね。」
「石の目地はやむを得ずできるものだけど、ディテールの一番重要な部分ともいえるんだ。」
「そうだね。ディテールというものは、部材と部材がぶつかる所をどのように収めるかというところが最も重要なポイントなんだと思うなあ。」東郷さんは自分の実体験に基づいた理論を語った。
「だからディテールは2種類あると言えるかもしれません。一つは装飾的なもの。もう一つは、部材の取り合わせの納まり。」先生が整理した。
「あっ。そういうことですか。」
「モダニズムは装飾を排除したけど、部材の取り合わせのディテールは残っているはずだよね。」
「これは入口周りの額縁です。」
「うん。まさにギリシャ建築の典型的な額縁装飾だね。」
「ものすごく繊細な細工だ。」
「しかし、とても繊細な細工が、あまりにも正確にできているので、かえって、職人の手を感じないなあ。」
「そばに近寄ってみました。」
「うーん。正確過ぎる。」
「昔の職人さんは、よくこんな丁寧な仕事をしましたね。」
「では、つぎは俺の金属の出番だ。まずこのランタンを見てくれ。みごとだろう。」
「雰囲気ありますね。ヨーロッパの街角みたい。」
「こんどは窓のブロンズのグリルだ。実に手が込んでいる。」
「いろんな要素があるので、いっぺんには目にはいらないですね。」
「防犯のためのグリルが芸術作品にまでなっているという、様式建築の傑作に相応しいアイアンワークだねえ。」
「雷文の幾何学文様に植物の文様が絡み付いたということがわかるね。」
「人の侵入を防ぐ目的と、気品のあるデザインがうまく両立していますね。」
「よく見るとイルカのようなものがいるんだ。」
「面白いですね。こんな所に可愛い動物がいるなんて、ちょっと気がつきませんね。」
「これは通用口の入口脇のブロンズだけど、小さな柱頭が丁寧に作られているんだよ。」
「ほんとですね。コリント式の柱頭ですね。」
「ギリシャの野アザミの一種アーカンサスをもとにしたデザインだ。」
「帝国劇場の壁にこんな街灯があったよ。」
「いかにもモダン・デザインだなあ。」
「わたしは、石を追い掛けて日比谷まで行ってしまいました。村野藤吾さんの日生劇場です。」
「石の使い方がとっても面白いと思いました。」
「モダニズムの全盛時代にこれだけ石を使ったものはなかったので、ずいぶん話題になったものだ。」
「どんな話題だったんですか。」
「鉄筋コンクリート構造なのに石を張り巡らして、構造の真実性を表現するという近代建築の原則を踏み外していると非難されたんだ。」
「ガウディの模倣だと非難した人もいたね。」
「村野さんは世界中の建築を参考にして気に入ったものは何でも取り入れるけど、結局自分のオリジナルなデザインにまとめあげる人だったから、今見てもやはり傑作だと思うなあ。」
「私は時代を超越した建築だと思いました。」
「これはコーナーの柱ですけど、上の全体の重さを支えているみたいで、すごく力強い感じがしました。」
「重要な柱だけど、柔らかさがあって、シンボリックだね。」
「コルビュジエの主張したピロティをガウディの感覚で作ってみせた。」
「ピロティの下のモザイクがとっても可愛かったです。女の子たちが待ち合わせの場所にしていました。」
「モザイクのパイオニア長谷川路可という人の作品です。」
「彫刻もいい雰囲気でした。」
「イタリアの具象派彫刻家ファッツィーニの作品です。」
「贅沢なピロティだなあ。」
「窓も石でまとめていますけど、とっても独創的なデザインだと思いました。」
「うまいねえ。もうだれもこんなデザインはできないなあ。」
「世界に二つとない貴重品だ。」
「東京の建築のなかで、1、2を争う傑作だと思うなあ。」
「こんなビルがあったのは知らなかったなあ」
「これは実は新しいビルなんですよ。お壕沿いの第一生命と裏側の農林中央金庫を一緒にしてまとめた。そのとき、古い農林中央金庫のビルの柱頭と柱脚を利用して、前のデザインを活かしながら、デザインしなおしたものなんだ。」
「なんだか、ニューヨークの街角を歩いているみたいな雰囲気がありますね」
「このあたりは、丸の内のオフィス街なんだけど、1階におしゃれな店が入って、ショッピングが楽しめる街に変身してきたんだ。」
「昔は土日は人がまったく歩いてなくて、死んだような街だったんだけど、今は、ショッピングを楽しむ人で賑わっている。」
「また東京駅のそばまで戻ってきました。東京中央郵便局です。」
「近代建築の初期の傑作と言われているものだね。」
「ここはタイル張りですから、先生の出番ですね。」
「この建築は単純に見えるけど、よく見ると、けっこういろんなディテールがあったんだよ。」
「単純な白いタイル張りだと思っていたけどねえ。」
「これは建物のコーナー部分だけど、わざわざこんな丸いタイルを焼いていたんだね。」
「よく見ないと気がつきませんね。」
「でも、角を直角にせずに、丁寧に丸みをつけているために、モダニズムなのに全体の印象がやさしい建築になっているんだね。」
「これは業務用の入口周りだけど、ほかと違う角度をつけて他とちがう雰囲気をだしている。」
「角度をつけて、ちょっと硬い表情をだしているね。」
「タイルの貼り方を変えて他と違う雰囲気をつくっている。」
「微妙な角度のある開口部だなあ。」
「単純な建築かと思っていたけど、けっこう手の込んだことをやっているなあ。」
「この入口周りの丸いタイルは、また特別の曲面だね。」
「普通の窓周りのタイルも角が微妙に丸みをもっている。鋭い角になっていない。」
「このために、全体がなんとなく優しい印象があるんですね。」
「そうだと思う、今の建築にない心遣いですね。」
「窓台も特別なタイルが使われていた。」
「しかも端部のタイルはまた特別だ。」
「このビルの外装はずべて白いタイルなのに、いろんな工夫があって、丁寧な仕事ぶりが見られました。」
「吉田鉄郎という建築家の、毅然としているけど、優しい人柄が出ているような気がしますね。」
「優しい気配りが心にしみるようなビルでした。」
「最後は、東京駅だ。このレンガの目地をよーく見てください。目地の真ん中が膨らんでいるでしょう。こんな特殊な目地を作ったんだ。」
「たしかに、こうすると微妙な陰影ができて、印象が変わるだろうなあ。」
「しかし、職人泣かせだなあ。」
「じつは、わたし、石のディテールを撮っていて、面白い共通のものを発見したんです。今日見たビルの柱をまとめてみましたので、見てください。」
「実は、石の建築の柱を集めてみたんです。どうでしょうか。」
「おーっ。これはすごい。様式建築の基本中の基本。ギリシャ神殿の柱からとった柱の上部の装飾、柱頭の部分だ。」
「しかも、ドーリス式、イオニヤ式、コリント式と全部揃っているね。」
「私が不思議だったのは、最初の工業倶楽部の柱だけ、途中のつなぎ目が見えなかったんです。」
「うーん。いい所に気がついたね。そうなんだ。これだけは、継ぎ目のない一本の石材なんだよ。日本の近代産業をになった会社のクラブだから権威を誇示しているわけだ。」
「ドーリス式は質素だけど、一番格調が高い。」
「農林中金の柱頭がとっても可愛らしいと思いました。渦巻きがとっても柔らかい感じがしました。」
「うん、渡辺仁のうまさがよく残っている。」
「今日は、ほんとに楽しかった。」
「うん。こういう見方があるんだねえ。改めて丸の内の建築を見直したなあ。」
「丸の内は最上級の建築博物館ですね。」
「そうだね。上野公園でもそう言ったけど、上野は国家の、丸の内は民間が財力を傾けて作ったところが対照的だ。」
「きょうは、建築に親近感を感じました。ありがとうございました。」
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